ヴォルフガング・ミヒェル「福岡俘虜収容所について」。国際シンポジウム「日独文化交流史上の在日ドイツ兵捕虜とその収容所」。岡山大学文学部(岡山大学社会文化科学研究科主催)、2008年10月13日。
W. Michel: On the Prison Camp Fukuoka. International Symposium: German Prisoners and their Camps in the History of Cultural Exchange between Germany and Japan. Okayama University, Okayama City, 13 Oct 2008.   [in Japanese]

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ヴォルフガング・ミヒェル

要約: 福岡俘虜収容所について


1914年11月11日に開設された福岡俘虜所は、同月15日、17日、19日の計850名俘虜の到着から、1918年4月12日までの約3年5か月間で比較的長く存在したものだった。利用された施設は、市内の3カ所に分散していた。マイアー=ヴァルデック膠州総督以下の幕僚は、洲崎海岸旧台場にあった福岡日本赤十字支部の豪華な洋館でゆとりの生活を送りながら、下士官と兵卒は、柳町の旧遊郭跡に建てられた家屋(7棟)に収容された。また、県物産陳列場には、本部事務所、衛兵詰所が設置された。すでに1914年の夏で始まった久留米、大分、青野原、大阪、名古屋、習志野などへの段階的に行われた移送は、収容所の運営に大きな影響を及ぼした。八幡製鉄所、博多駅などの関連でのドイツ人による技術協力やドイツ医学、法学などを重要視する九州帝国大学などがあり、俘虜が置かれていた環境は好意的だったが、板東や久留米のような住民との密接な交流やコンサート、演劇、物産展といった文化的活動は、確認できない。技術協力は、1915年4月「捕虜使役」の許可がおりてから、今津海岸ですすめられていた元寇記念碑(「元寇殲滅之処」)の建設への参加(兵卒80名)という程度だった。海への遠足、博多山笠の鑑賞のために外出する際、市民の目に触れる機会は、決してすくなくなかったが、『福岡日日新聞』をみるかぎり、とりわけ総督及び将校たちの行為は地元の注目を集まっていた。しかし、大正4年11月中旬の大正天皇即位祝賀を利用した将校5名の大胆な脱走により、監視体制はより厳重なものになった。同年12月、アルザス出身の俘虜8名は帰国を許可され、翌年の10月には、外の収容所へのさらなる移送が行われた。6年7月5日に、民家で生活していたフォン・ザルデルン大尉の妻が侵入した強盗に刺殺され、大尉は後追い自殺した事件は、全国の新聞で報道され、収容所の解体を早めた。マイアー=ヴァルデック総督及び残留の俘虜が7年3月22日習志野へ移送された翌月福岡収容所が閉鎖された。福岡の俘虜のなかで、大戦終結後日独貿易で活躍しながら、1936年の日独防共協定締結に際して活躍していたフリードリヒ・ハック博士が注目に値する。


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