フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの生涯


 ドイツ人医師・博物学者シーボルトは一人の研究者として日本の社会・歴史・自然などあらゆる分野にわたる総合的研究を行った最後の代表的ヨーロッパ人である。
1796年
シーボルト、神聖ローマ帝国の司教領ヴュルツブルクに、数々の学者を輩出している家の長男として生まれる。父が早世したため、母方の叔父に育てられる。
1815年
ヴュルツブルク大学に入学。医学、植物学、地理学を学ぶ。
1820年
国家試験を受け、ハイディングスフェルト村で医者として開業する。
1822年
オランダ領東インド陸軍病院の外科少佐として採用される。
1823年文政6年ジャワ島到着(4月)。6月に来日。
1824年文政7年シーボルト、長崎郊外に私塾兼診療所を設ける。高野長英、二宮敬作、伊東玄朴、戸塚静海など50人以上の門下生がここで西洋医学や自然科学などを学びながらシーボルトの日本研究に協力する。
1826年文政9年シーボルト、オランダ商館長の江戸参府に随行し、数々の蘭学者、大名などと交流する。ケンペル、ツンベリーなど研究熱心な以前の商館医と同様にシーボルトは、この旅で資料及び情報の収集を行う。
1827年文政10年楠本瀧とシーボルトの娘イネ(1827-1903)誕生。後に日本人初の、女性で西洋医学を学んだ産科医となる。
1828年文政11年帰国する直前、シーボルトの所持品の中に幕府禁制の日本地図などが見つかり、いわゆるシーボルト事件が勃発。国外追放処分となる。



1846年弘化3年長男アレクサンダー(1846-1911)誕生。
1852年嘉永5年次男ハインリッヒ(1852-1908)誕生。
1858年安政5年日蘭通商条約の締結によりシーボルトの追放が解除となる。
1859年安政6年シーボルト、オランダ貿易会社顧問として再来日。息子アレクサンダーとハインリッヒを同伴。
1861年文久1年シーボルト、対外交渉のための幕府顧問となる。
1862年文久2年後にシーボルトの孫娘の婿となる三瀬諸淵(1839-1877)が、シーボルトのために日本の歴史書を翻訳した罪で逮捕される。
1862年文久2年シーボルトが持参した文献に日本で入手した文献を加え、出島で蔵書目録を出版する。
1862年文久2年シーボルト、官職を辞して帰国。
1866年慶応2年ドイツ・ミュンヘンで死去、享年70。

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