Wolfgang Michel: Kasuparu Shamberugeru to Kasuparu-ryûgeka (I) [On Caspar Schamberger and Caspar-Style Surgery (I)]. Nihon Ishigaku Zasshi -- Journal of the Japanese Society of Medical History, Vol.42, No. 3 (1996), pp. 41-65.
ヴォルフガング・ミヒェル「カスパル・シャムベルゲルとカスパル流外科(I)」『日本医史学雑誌』第42巻第3号(1996年)、41〜65頁。
ヴォルフガング・ミヒェル「カスパル・シャムベルゲルとカスパル流外科(II)」『日本医史学雑誌』第42巻第4号(1996年)、23〜48頁。
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On Caspar Schamberger and Caspar-Style Surgery (I)
On Caspar Schamberger and Caspar-Style Surgery (II)

 

ヴォルフガング・ミヒェル

カスパル・シャムベルゲルとカスパル流外科(I)・(II)

カスパル流外科の元祖カスパル・シャムベルゲル( Caspar Schamberger, 1623 - 1706)の日本における活動については、本誌第41巻第1号においてすでに論じたが、[1] ここでは、シャムベルゲルの「教え」及びカスパル流外科の原形の諸問題を考察したい。

 

 (1)シャムベルゲルの外科学に関する知識

カスパル・シャムベルゲルは、14歳になった1637年から出生地ドイツ・ライプチヒにおいて3年に亙り外科医ギルド長クリストフ・バッヘルト( Christoph Bachert)に外科学の基礎を学び、1640年に外科医の資格を与えられた。[2] 彼が受けた教育の概略は、ギルド規定に含まれている試験項目から読み取れる。[3]

「一 頭について
 一 頭蓋について
 一 脳硬膜と脳軟膜について
 一 首、胸について
 一 腹の傷と内臓が射抜かれた傷について
 一 肩と腰について
 一 腕と足について<
 一 手足の脱臼と捻挫について
 一 手足の骨折について
 一 手足の射創について
 一 手足の切り傷について
 一 関節の負傷について
 一 傷口の開き、炎症について、
 一 腫れた傷について
 一 致命傷について
 一 止血、飲み薬、粉による止血について
 一 瀉血について
 一 症状と発作について
 一 危険な損傷全般について
 一 膏薬の効力と作用、性質について
 一 膏薬の準備と調合について
 一 仕事場の設置とその設備について」

30年戦争で荒廃した中央ヨーロッパにおいては様々な伝染病が多発している。国際貿易上の拠点都市ライプチヒが20年代以来払ってきた犠牲は大きかった。カスパルが見習いを始めた1637年には、ペストの流行により市民の2割が死亡した。[4] 町の経済基盤が脆くなる中で、食料品が不足し、さらなるペストの流行に加えて、1640年には、ケーニヒスマルク( Königsmarck)将軍の率いる軍隊との戦闘が相次いでいたとライプチヒの年代記はその当時の悲惨な様子を生々しく伝えている。[5] 若きシャムベルゲルが、射創、切り傷、突き傷、骨折、種々の腫物及びペストの病状を十分に見る機会があったことは想像に難しくない。

「優秀な成績で」外科医の職人資格を得たカスパルは、ギルドの掟に従って修行の旅に出かけた。1706年、シャムベルゲルの葬儀の時印刷された「弔辞」に挙げられている地名を総合すると、彼は中欧、北欧を転々とし、最後にアムステルダムにたどり着いている。[6] 外科医として東インド会社に応募してきた者は、検定試験を受けなければならなかった。その試験内容は、かつてオランダのミデルブルッヒで外科医を勤めていたコルネーリス・ヘルス( Cornelisz Herls) 著の『外科学の試験』( Examen der Chyrurgie) に見られる。これは東西両インド会社のために書かれたもので、アメリカ及び東アジアを目指す「若手の外科医」用参考書であった。初版と第2版には発行年が 記載されていないが、第3版は1645年の発行になっている。発行者はその前書きで、この本を船員や同行者の世話及び健康管理を担当する「優秀で知的な外 科医」の雇用に役立てて欲しいと述べている。その外科学の範囲はライプチヒの外科医ギルド規定とほぼ一致するが、この著書によって各々の項目の内容とその 重要さの度合いの詳細が明らかになる。

まず目に付くのは、本の半分以上を占める、頭から足までのあらゆる膜、筋、血管、腱、骨、体内の臓器、性器等々、人体についての驚くほど詳細な解剖学である。所々の指摘によれば、 Spiegelius、 Laurentius、 Bartholinusなど、最新の研究が生かされており、レベルは決して低いものではなかったことがわかる。[7] こ れに対して、たった30ページで終わっている病理学は、4素及びその性質、4体液、これら体液のバランスが崩れることから発生する病気のことなど含むギリ シャ・ガレノス流の体液病理学に過ぎなかった。治療現場で活躍する外科医の関心は言うまでもなく理論より実践にあった。

治療に関する記述は、腫物、外傷、潰瘍、骨折、脱臼、ペストの順で、内容も当時のパレ流外科書の多くとほぼ一致している。腫物については、原因、兆 候、特徴や個々の段階におけるそれに相応する鎮静、散らし、促進剤(膿薬)のことが述べられている。外傷なども同様に取り扱われ、単純な外傷か複雑な外傷 かによって様々な症状、挫傷、骨折、炎症ごとにまとめられている。ヘルスが挙げているおびただしい薬品の処方は一切紹介されていない。それについては、そ れぞれの都市の薬局方を調べなければならない。

本文全体は巧みに構成され、ひとつの問いに対する答えから次の問いが導かれるようになっている。この「問答書」は試験用の優れた復習書であり、同時 に実用的な参考書でもあった。従って『外科学の試験』の評判はよく、繰り返し改訂、増補されている。1676年にはアウグスブルクにおいてドイツ語版も出 ている。当時、東インド会社が採用した外科医の平均的な知識について知るには、この著作が最も有力な手掛かりとなる。

 

 (2)「カスパル流外科」とシャムベルゲルの「弟子」

紅毛流外科関係の論文、著書の多くでで引用されている「阿蘭陀国外科加須波留先生系脈」には、[8]  猪股伝兵衛を初めとして、通圓、向井元升(玄松)、鳥飼道節、栗崎道有、山口寿斎、内田藤左エ門、堀意半等々、シャムベルゲルの「弟子」がずらりと並んで いるが、南蛮流外科で著名な栗崎や、シャムベルゲルが日本を去って数年後にようやく商館長の日誌に現われる向井元升のような名前までが記載されていること は、この系譜の信憑性に疑念を起こさせる。また、名称の上では、「カスパル流」は19世紀まで続いていたが、後世の医師の外科術の方が元祖の教えを遥かに 越えていた。従って、上記のような系脈図や家系図は、「カスパル流文献」の伝達史及び人脈図を示す資料として理解した方がよさそうである。カスパルの名前 を一種の箔付けとして利用している場合も確認されるので、詳細な調査を抜きにして結論はまだ出せない。また、シャムベルゲルの滞在期間、任務内容及び行動 上の厳しい制約を考えると、本来の意味での「弟子」を養成することには到底至らなかったであろう。従って、いわゆる系脈図にはとらわれらず、まずシャムベ ルゲルと直接接触していたか、それとも当時、関係資料を入手していたと考えられる数名の人物について考察したい。

 

 猪股伝兵衛(?〜1664年)

後世に文献を残すという意味において最も恵まれた立場にあったのは、出島蘭館の通詞猪股伝兵衛である。オランダ語よりポルトガル語に精通していた伝兵衛は、[9] 1646年の江戸番通詞をしており、[10] 当時の蘭館医マタイス・クラウセン( Mathijs Crousen)が非常によい待遇をうけていたことから、大目付井上政重等の幕府の高級官吏が紅毛医学に対して強い関心を抱いていたことを読み取れたであろう。[11]  1649年〜50年、伝兵衛は石橋庄助(助左衛門)と老通詞西吉兵衛と共に東インド会社の使節団の世話をしている。1650年4月に特使フリシウス一行が 長崎へ戻った後も猪股はバイレフェルト、スヘーデル、シャムベルゲル、スミットと共に江戸に残り、同年10月まで様々な患者の治療に当たったシャムベルゲ ルの説明、指示、処方等などを通訳した。

シャムベルゲルが江戸で得た評判を考えると、長崎の両奉行、大目付井上、治療を受けた稲葉政則及び井上の侍医トーサクなどが、彼の医術に大いに興味 を持ったことは想像に難くない。信憑性の高い「阿蘭陀外科医方秘伝」及び「阿蘭陀外療集」に基づいて宗田一氏がすでに紹介しているように、慶安3年9月及 び10月(1650年10月及び11月)、長崎の両奉行に、カスパルの治療法についての報告書が提出された。[12] 9月の文書は江戸で、10月の文書は長崎で作成されており、その他の外科写本及び元禄7年(1694年)の「相伝一牒」、[13] 享保5年(1720年)の「加須波留伝来記」、[14] 享保14年(1729年)の「阿蘭陀免許状」[15] 及び「阿蘭陀縁起」[16] にも伝兵衛の名が現れるので、カスパル流外科の原典と目さる慶安3年の文書の著者は、猪股以外には考えられない。

蘭館日誌に書かれた記述が裏付けているように、シャムベルゲルの後任者ハンス・ユリアーン・ハンコ( Hans Juriaen Hancke)が1656年〜57年に亙って向井元升に教えた際、病理学、薬学などの内容及び用語などが大きく異なる西洋医学関係のものを翻訳する作業は、非常な困難を伴い、出島の通詞は全員息をつく暇もなかった。[17] 半年間も江戸にいて、たった一人の通詞として通訳を担当し、最終報告書をまとめた伝兵衛が紅毛流医学の伝達史上挙げた業績は確かに大きい。それにも関わらず、当時の商館長の多くは、彼のことをずるがしこくて抜け目のない人物と評した。[18] 彼が自分の一存で患者をシャムベルゲルのもとに連れてきたのも、恐らくはそのことに見返りが約束されていたからであろう。[19] 大目付井上との関係も次第に悪化した。[20]

猪股のキャリアはそれ相応に惨めな終りを迎えた。1655年の蘭館日誌によれば、彼は商売気を出しすぎてしまったようである。通詞志築孫兵衛と一緒 に猪股は、幕府への献上品、珍品などの全責任者であった井上の目を盗んで、商館長一行が持参してきた珍品の残りの一部を江戸で売りさばいていた。このこと が露見すると、それまでの同種の事件も発覚し、ついにはそのことが猪股の命取りになってしまった。7月25日猪股は長崎奉行に辞意を申し出、認められた。 あまりにも急なことで、商館長らに別れを告げるのに、夏の終わり頃出島が一般住民に開放される取引の日まで待たなければならなかった。[21]

恐らく伝兵衛は他の職には就けなかったため医師の道を歩き始めたのであろう。1646年にはすでに参府同行者の一人として、その後継者と目されてい た息子伝4郎も、通詞としての将来をあきらめざるを得なかった。仙台に住み着いた分家には伝4郎を祖とする家系図が残っている。それによれば、伝四郎はオ ランダ人カスパルのもとで学び、外科医になったようである。[22] 彼がシャムベルゲルと会ったかどうかは別にしても、京都大学付属図書館蔵の「紅毛外科書」の始めには、著名な儒医、向井元升の門人になったことを示す記述がある。[23]

 

 河口良庵(1629年〜1687年)

次に取り上げるべき人物は、長崎在住の若い医師河口良庵春益である。河口家の歴代の医師についてはすでに川島恂二氏が詳細に紹介している。[24]

当時20歳の良庵は1649年11月にシャムベルゲルのもとで教えを受けた4人の医師のうちの一人であった可能性もあるが、確たる証拠はない。しか し、幼年時、彼の父親は平戸の松浦家に仕えており、同じ平戸でポルトガル語の通詞を勤めていた猪股を知っていたこともあって、伝兵衛から様々な資料を入手 した可能性は十分にある。

寛文6年(1666年)には、河口の門人野田房頼、良庵よりカスパル流外科の免状を受け河口家の養子、河口良閑となる。その免状とともに、「阿蘭陀 流縁起」の一巻も現在残っており、それには、いわゆるブレスケンス号事件やフリシウスの使節団のことや、江戸での砲兵スヘーデル及びシャムベルゲルの活動 などについても書かれており、これらは良庵がカスパルが来日した慶安2年の出来事について事細に知っていたことを証明している。[25]

60年代後半頃、河口は長崎を離れ、京都に移住した。おそらく彼は宮廷に職を得ようとしたのであろうが、川島恂二によると、中国系の妻を持ち、キリ シタンであるという噂がかなりの妨げになったようである。1938年に紹介された京都の岸本家の家系譜によれば、河口には京都滞在中に、小野氏友庵良悦及 び3牧宗庵という弟子がいた。また、その2年後には、岸本宗圓政時(前田助左衛門)がこの2人から医術を学んでいる。[26] 小野は後に宮崎と名乗り、越前大野に移り、土井支藩に仕官することになった。[27] その宮崎家所蔵の「免許皆伝」中にも、享保5年(1720年)付の「加須波留伝来記」というものが見られる。[28] 

河口との関係を記した家系譜の他に、岸本家には「賀須波留十七方」(一帳)が伝わっている。[29] この文献の信憑性については上記の「加須波留伝来記」が証明している。両文献には慶安20年(1643年)に起きたブレスケンス号事件と1649年のオランダ代表団の来朝のことが記されており、「迦毘端梵論胡須」( Antonio van Brouckhorst)、「外科加須波留」及び「石火箭兪利耶牟」( Jurian Schedel)等の名前も挙がっている。[30] また、個々の事件の日付に関してもこれらの文書の著者たちは、「蘭学事始」の冒頭でカスパル流について述べている杉田玄白よりもはるかに正確に記述しており、この点特に注目すべきであろう。[31] 

先妻との間に産まれた長女於蝶が伊予大洲城下の徳正寺に嫁したということもあってか、河口は1670年頃大洲へ移住することになった。そこにはかつ て河口の門弟であった鎌田良球政信が住んでおり、師弟関係がさらに深まったのではないかと思われる。大洲で彼は、シャムベルゲルやその後任者たちの西洋医 術と中国医学がブレンドされ、体系的に構成されている「外科要決全書」(1670年)をまとめた。[32] 59歳の良庵は貞享4年2月6日大洲で歿した。[33]

かつてシャムベルゲルの指導を直接受けたかどうかは不明であるが、河口良庵は、出島商館からの情報を熱心に集めたり勉強したりしていたに違いない。長崎で1666年にまとめ上げた600語以上から成る「阿蘭陀語」という語彙集、[34] また大洲で編纂した「諸薬口和」もその意欲を裏付けている。[35]  京都と大洲に移り住んだために、彼の資料が幾重にも写されることになったのであろう。また、宮崎、小野、岸本などのことを考えると、初期紅毛流医術が短期 間に国中に広まっていたことも注目に値する。その写本の内容からみても伝達史からみてもこの河口系脈こそが最も明確なものである。

 

 侍医トーサク(?〜1654年)

さらに、西洋医学関係の資料を持っていたのは、すでに紹介した大目付井上政重の侍医トーサクである。[36] しかしながら、明暦の大火により、井上の両邸とともにその文書は焼失してしまったものと考えられる。[37] 今日残っているカスパル流資料のほとんどが長崎に住んでいた猪俣伝兵衛、河口良庵及び西玄甫に遡るものであることは決して偶然ではない。

 

 西玄甫(?〜1684年)

西玄甫(吉兵衛)の名は、カスパル系譜には載っていないが、彼はすでに沢野忠庵の元で南蛮医学を学んでいたようであり、シャムベルゲルを無視したと は思えない。東インド会社の資料によれば、彼は特使フリシウスの通詞を勤めていた父親西吉兵衛と共に江戸参府に同行が許されている。[38] 西玄甫はシャムベルゲルが毎日患者に呼ばれていることや、大目付などの高官によって評価されていることも見聞きしていた。「西流」の写本が示すように、西玄甫の手元にはシャムベルゲル関係の資料があった。

 

 (3)カスパル流医書の諸問題

日本人に対するシャムベルゲルの教えを直接に伝えてくれる原典が残存しないため、カスパル流外科の本来のものがどういうものであったかを定めること は困難を極める。これまでに関場不2彦、富士川游及び古賀十2郎が幾つかの文書を紹介しているが、それらの由来、信憑性、位置づけなどについてはあまり深 く踏み込んだ分析は行われていない。[39] 初期の紅毛流文書には後世の資料が混在しているという指摘も少なくない。[40] 従って、「カスパル流」と思われる様々な写本における人名、日付、用語の特徴、内容上の共通点等などを考察しながら、それらの背後にあったものと考えられる原典にアプローチする方法を取らざるを得ない。

カスパル流医書を探すうちに、『日本国書総目録』に記載されているものに加えて個人所有の写本が数多く存在していることが分かってきた。それらの所 在の確認にもアクセスにも制約があることを考えると、今後とも下記の資料以外のものが出てくる可能性があることを忘れてはならない。

これまでの研究のなかで、宗田一氏が1980年に紹介した「阿蘭陀外科医方秘伝」は各種のカスパル流医書をある程度整理する上で最も重要な手掛かり を与えてくれたものであったといえる。この写本の前書きには、ブレスケンス号事件、当時の商館長エルセラックの活動、慶安2年のブロウクホルスト一行の到 着、「火矢打ユリヤン」と「外科カスハル」の長い江戸滞在、9月18日江戸を出立、10月朔日大阪着、続く同22日長崎着、翌年9月20日付の出港など、 この文献の信憑性を裏付ける極めて具体的な記述が見られる。さらに、「阿蘭陀外科医方秘伝」の最後には以下のような説明がある。

「右此書物者阿蘭陀外科メステルカスハル入津ノ時江戸江罷下諸大名衆御療治無比類手柄多依有是長崎御奉行馬場三郎左衛門殿因仰編一冊指上申書物之写也予求得之雖秘蔵深依為執心免赦之者也直子之外相伝有間敷者也

于時慶安3年 寅9月日」[41]

この日付はバイレフェルト、スヘーデル、シャムベルゲル、スミットが10ケ月間に亙る江戸滞在を終えた1650年10月に当たる。当時、砲術士スヘーデルの「攻城法」が作成されたという指摘は以前からあるが、[42] 上記の記述から、シャムベルゲルの医療活動をまとめた報告書も存在したと、宗田は分析している。それを依頼したのは、おそらく西洋技術や医学に強い関心を寄せていた大目付井上政重であり、著者にそれを命じたのは江戸勤務中の長崎奉行馬場3郎左衛門であろう。

以前関場不二彦が論じた河口良庵に遡る「阿蘭陀外療集」の第6巻にある膏薬の17方の終わりに次の記述が載っている。

「右十七方阿蘭陀外科女須戸呂加津春口伝之通一編ニ一冊指上申候
慶安三年庚寅十月日」[43]

日付は1650年11月にあたっており、その時、シャムベルゲルは新任商館長ステルテミウスと共に長崎から再び江戸へ発とうとしていたのである。そ して、この17の軟膏薬の処方の名称、順番、成分の量が上記の「阿蘭陀外科医方秘伝」と完全に一致していることも注目に値する。宗田は、おそらく1650 年に長崎在勤中の奉行山崎権8郎のために、もう一冊の報告書が提出されたのであろうと説明している。

様々なカスパル流医書を点検するうち、同じ時期のもう一つの文献があることに気が付いた。これは京都大学にある「紅毛外科書」であり、「西先生家秘膏薬方」が含まれているので、[44] 西流外科に属すると推定されている。ここにも軟膏薬の「十七方」の最後に日付及び猪股伝兵衛の名が見られる。[45]

「右紅毛外科メステルカスハル口伝ノ通編一冊指上申候

辛卯年十月7日猪股伝兵衛」 

「辛卯年十月七日」は西暦の1651年11月19日に当たり、恐らくシャムベルゲルが同年11月1日にバタヴィアへ旅立った直後、猪股がシャムベルゲル日本滞在の2年間に集めた記述を再考したものであろう。

「阿蘭陀外科医方秘伝」を当時の他のものと比較すると、多くの共通部分が明らかになる。[46] また、これまでに南蛮流の医書とされている元禄6年刊行の『阿蘭陀外科指南』にもそれのほとんどが含まれていることは大いに注目に値する。

 

 

故佐藤氏蔵

慶応大

杏雨書屋

(京大)

慶応大

 

「阿蘭陀外科医方秘伝」(1650)

「阿蘭陀外療集」

「阿蘭陀外科書」 (1658)

「紅毛外科書」

(1651)

「阿蘭陀外科書」

『阿蘭陀外科指南』  (1696)

外科総論

熱寒風痰見樣

腫物

金瘡

カスハル十七方(概略)

カスハル十七方(煉樣)

阿蘭陀薬

×

×

×

×

「水戸中納言様小性足ノ療治」、「稲葉美濃守殿筋痛ノ時療治」、「井上筑後守様坊主衆療治」、「井上筑後守殿御用被召上薬物之事」

×

×

×

×

×

 

「阿蘭陀外科医方秘伝」が慶安3年9月に編集された報告の原形に最も近いものと思われる。全カスパル流医書のうち、出島蘭館日誌に記されたシャムベルゲルによる稲葉正則の治療を始めとして、江戸での治療例及び井上関係の記述が載っているのはこれだけである。[47]  「阿蘭陀薬」についての記述は同年10月長崎で改めて提出された文書にも含まれていたが、河口良庵に拠る「阿蘭陀外療集」及び華岡塾へ伝わった「阿蘭陀加 須波留伝膏藥方」にしか残っていないようである。特に河口良庵と西玄甫に遡る文書の中には上述の書からの重要な部分が見受けられる。このため、カスパル流 医書の伝播には少なくとも3本の流れがあったのではないかと考えられる。[48]

 

A(江戸)

B(長崎)

C(長崎)

1650年10月

江戸において通事猪股伝兵衛が長崎奉行馬場三郎左衛門のため報告書を提出する。

1650年11月

長崎において通事猪股伝兵衛が長崎奉行山崎権八郎に報告書を提出する。それはAの写しと思われる。

1651 年11月

通事猪股伝兵衛による文書。A・Bの写しか改訂か。

由来の断定できないカスパル流文書

河口良庵

西玄甫

 

「阿蘭陀外科医方秘伝」(故佐藤氏)

「阿蘭陀加須波留秘方」(成田)

「外科要訣」(河口家)

「阿蘭陀外療集」(慶大)

「カスパル伝方」(京大)

「阿蘭陀外科書」(杏雨)

「阿蘭陀外科書」(慶大)

「阿蘭陀外科書」(九大)

「外科加須波留方」(慶大)

「阿蘭陀流伝授本」(宗田氏)

「阿蘭陀外科一流書」(宗田氏)

「阿蘭陀外療秘伝」(慶大)

「阿蘭陀流外治」(慶大)

「紅毛外科」(慶大)

「阿蘭陀十七方」(京大)

「阿蘭陀外科」(京大)

「阿蘭陀外科書」(慶大)

「紅毛外科集」京都、和田氏)

 

 

 

 

「阿蘭陀南蛮口一切和」

「阿蘭陀流外科」(京大)「阿蘭陀流外科書」(京大)「阿蘭陀加須波留秘密之方」(宗田氏)「阿蘭陀流外科書伝」(慶大)「阿蘭陀外療秘伝」(慶大)「紅毛膏液」(東大)

 

江戸の報告書はこれまで分かった限りでは2冊の書のみにその痕跡をとどめている。これはシャムベルゲルが日本を離れて6年もたたないうちに、数多くの重要な文書が灰になってしまった明暦の大火が原因だと思われる。

また、カスパルの「十七方」を含む書は数多く見つかったが、「十七方」以外にはシャムベルゲルの痕跡はほとんどないため、上記の3グループに帰する ことはできず、狭義のカスパル流医書としては認められない。しかし、この広がりをみると、当時この膏薬方がもっとも重視されていたことがわかる。「理論」 に関しては従来通りの東洋医学の病理学が普及していたようである。

シャムベルゲルの「教え」の重要な部分は元禄9年刊行の『阿蘭陀外科指南』に含まれていることも大いに注目される。幾つかのの膏薬には出典としてカ スパルの名が付いているが、その他の章はシャムベルゲルから切り放された形での方が、多くの読者によりた易く受容されていたのであろう。また、金瘡につい ての記述のみはそれよりも早く長崎在住の中村宗興の手に入り、貞亨元年刊行の『紅毛秘伝外科療治集』に「金瘡治要」として取り入れられている。[49]

 

 (4)カスパル流「外科学」

続いて上記の写本に見られるカスパル流外科学の概要を示すことにする。

 

 体液病理学

多くのカスパル流文書の巻頭には、単純な病理学の概略が見られ、[50] 「阿蘭陀医方秘伝」はかなり初期の様々な追加により、雑然とした形式を示している。

「一 夫人間之五體ニウモルト云血ノ名四ツ有一ツニハサンキ(血ナリ)二ツニハコレラ(ウスキ血也)三ツニハヘレマ(血水也)四ツニハマレンコンヤ右4色之サンキ(血ナリ)ト云ハ血ノ事也コレラト云ハ血ノ上澄(ウワスミ)薄血也ヘレマト云ハ血ノ内ニ有水也マレンコンヤト云ハ血ノヲリ也右ヲ地水火風ノ性ト云也サンキ(血ナリ)ト 云血ノ性ハ熱ニメ濕也コレラト云血ノウハスミノ性ハ熱ニシテ燥也ヘレマト云血ノ水ノ性ハ寒ニシテ濕也マレンコンヤト云血ノヲリハ性ハ寒ニシテ燥也然ニ右4 色ノ血何モ五体ニ相應スル時ハ無病大過不及有時ハ諸病モ發瘡腫物モ出来ル也右四色ヲ損傷モノハ風寒暑濕飲食或ハ淫事過シテ腎水衰(ヲトロ)ヘ心火[51]タカブリ或ハ金瘡打身或ハ遠行ナトシテ血ヲコタリ気血不和合シテ必発ル其源ヲ能問明可療治也」[52]

グレコ・ガレノス風の体液病理学は一目でそれを分かるほど簡潔にまとめられており、4つの体液やその基本的性質、体内でのこれらの正常混合( Eukrasis)、また病気の原因となる異常混合( Dyskrasis)、生来の温かさ( Calidum innatum)など、もっとも重要な術語も確認できるが、当時の著者や読者がこの文章を西洋伝統医学の知識をもつ我々と同様に理解していたとは思えない。

 

原文での名)

当時の解釈

語源。ラ=ラテン語、ポ=ポルトガル語

現代の訳語

ウモル

 

humor(ラ)、humór(ポ)

体液

サンキ(血ナリ)

sanguis(ラ)、sangue(ポ)

血液

コレラ

上澄薄血

cholera(ラ)、cólera(ポ)

黄胆汁

ヘレマ

血ノ内ニ有水

phlegma(ラ)、fleuma(ポ)

粘液

マレンコンヤ

血ノヲリ

melancholia(ラ)、melancolia(ポ)

黒胆汁

 

「血ノ上澄薄血」、「血ノヲリ」、「血ノ内ニ有水」という片仮名表記の用語に付け加えられた説明からみても、異質の理論に接する際の問題が窺える。 体液論の詳細を把握することなしには、それを構成している各概念を理解することは難しく、翻訳も無理なことであった。また、受容者側のこういった多大な困 難に加えて、それを伝える側の理髪外科医の方も病理学に関してはそれほど力を入れた養成を受けていなかったことも見過ごしてはならない。シャムベルゲルや 17世紀後半の彼の後継者の多くは体液などについての細かな知識は持っておらず、せいぜいある医書に基づいて説明できるに過ぎなかった可能性が大きい。結 局、彼らが消極的であったため、紅毛人から医術を学ぶ日本人の方もこのややこしい問題の解明にあらたな努力をしなかったといえよう。

 

 「熱寒風痰見樣」

17世紀のヨーロッパにおけるパレ流外科書は腫物を「単純な腫物」と、「複合腫物」と大きく2種類に分けていた。第1のグループに属する4種はそれ ぞれが4種の体液のうちの一種の過剰をその原因としていた。第2のグループも体液の異常混合によるとされていたが、この場合、他の原因も加わって、多少複 雑な混合形になっている。概念上はもっとも体系化の進んでいたこのグループは、ヘルルスなどの理髪外科医のための書物にも見られる。[53]

 

原因になる体液

腫物の基本的な型

下位分類

Sanguis (血液)

Phlegmon (熱)

Phygethlum, Phyma, Furunculus, Carbunculus / Anthrax, Ophtalmia, Synanche, Bubo, Gangrena, Estiomena, Sphacele, etc.

Cholera (胆液)

Erysipelas (熱)

Herpes miliaris, Esthiomenos excedens, Formica, Impetico, Exanthema, etc.

Phlegma (粘液)

Oedema (寒)

Hernia aquosa, Hernia ventosa, Hydrocele, Testudo, Ascites, Timpanites, Leucophlegmatia, Scrophulus, Atheroma, Steatoma melicerides, Ganglion, Nodus, Scrophula etc.

Melancholia (黒胆液)

Scirrhus (寒)

Scirrhus exquis, Cancer, Elephantiasis, Myrmecia, Clavus, Thymus, Varix, Morphea nigra et alba

 

「阿蘭陀外科医方秘伝」などに見られる「カスパル流分類」はこれとの類似性を示している。最初の3種の腫物は確かに上記の基本的な「体液」から導かれている。しかし「ヘンテ」、即ち「風気」による4種目の腫物は「水気性の体液」( humor aquosus)と「風気性の体液」( humor flatuosus)という性質上の分類に遡っているようである。パレ(1510〜1590年)は体液の「水気性」と「風気性」を基本的な観点と見なしていないのに対して、同時代のファブリキウス・アプ・アクワペンデンテ( Fabricius ab Aquapendente, 1547-1619)及び中世のギー・デ・ショーリアック( Guy de Chauliac, 1300-1370)のような、「水気性の腫物」と「風気性の腫物」を上記の4体液による腫物と同じレベルで取り扱っている。[54]

次に Phlegmoneを記していると思われる例を挙げる。

「一熱濕ヨリ生ル腫物(ヘイヒリト云テ熱ノ事也)ハ色(サンキ)赤シテ甚痛強(ト云血ヨリ発ル)シ療治ニ日先初テ発時ハ押薬ヲ付テ良押薬ノ性ハ寒燥ニシテシムル性ノ薬付ヨ其子細ハ寒ノ以テ熱ヲサマシ熱ノウモルヲ押留燥ヲ以テ身ヲ強濕ヲ燥シサテシムル性ニテ惣テ血ノヨラスヤウニスル也

熱ノ腫物押薬

一 ヲヽリヨロサアト(野イバラノ油)一 ヲヽリヨヒヨウラス(コマヒキグサノ花アフラ)

一 eq €o€ad(€s€up 12(小茄子ノミ),ヲヽリヨ)ソeq €o€al(€s€up 12( アフラ),レトロン) 一 eq €o(€s€up 12(太タブトモ),ヲヲリヨロウリイニ)[55]

右4味温テ塗付其上ニエンフラストテヘ(黒ツヽノミノ油)ンシイフン[56] ヲモメンニ伸テ打其上ヲ巻テ置ナリ一日ニ2度宛付替ル若不散時ワ熱寒等分ニ合付ベシタトエバ

一 ヲヽリヨロサアト            一 ヲヽリヨヒヨウラス

一 ヲヽリヨソラトロン          一 ヲヽリヨロウリイニ

一 ヲヽリヨカモメリ(野菊花アフ) 一 ヲヽリヨカ(ヤシホ)ラアブ[57]

右6色等分ニ合セ温塗付テ其上ニヱンフラストテヘンシイフンニエンフラストテヤキロン[58] ヲ等分ニ合木綿ニ伸テ付其上ヲ巻テ置ナリ是ニテ散カ膿カヲ見ルニ散サウ成時ハ散薬付テ散シ膿サウ成時ハ膿薬ヲ付テ膿セ針ヲ刺ベシ針目ニメイチヤヲ指入蓋ニヱンフラストムズラキニブス[59] ヲ打也メイチヤニハインリヱントアボストロウルン[60] ヲヌリ付テ指[入]也膿血抜ツクシテ後腫物ノ穴浅ナリタラハインクヱントテイゲステイホンヲホツリシモメンニ浸シ腫物ノ口ニ付其上ニeq €o(€s€up 12(膏薬ノ名),ヱンフラストテヤハルマ)[61]ヲ木綿ニ伸テ打也。」[62]

所々に説明が付け加えられたのは、未知の概念が多かったためであろう。河口良庵に遡る「阿蘭陀外療集」、「阿蘭陀外科書」などの写本及び元禄9年に刊行された『阿蘭陀外科指南』ではこれらの説明が本文の中に含まれている。

 

「南蛮流秘伝書」

「阿蘭陀外科医方秘伝」慶安3年、1650年

「阿蘭陀外科書」

萬治元年、1658年

『阿蘭陀外科指南』

元禄9年、1696年

 

一 eq €o€al(€s€up 10(ヘイヒリト云テ熱ノ事也),熱湿ヨリ生ル腫)

eq €o(€s€up 10(サンキト云),物ハ色) 赤eq €o(€s€up 10(血ヨリ発ル),して甚痛) 強シ療治ニ日先初テ発時ハ押薬ヲ付テ良

一 ヘイビリト云ハ熱ヲ云是ヨリ生ル腫物ハ色赤而甚痛強急ニ腫上ル也療治ハ初発時ニハ押テ散薬ヲ付ヘシ

ヘイビリト云ハ熱ヲ云也。是ヨリ生ズル腫物ハ色赤クシテ甚ダ痛ツヨク急ニ腫上ル也。治方ハ初発ハ押テ散薬ヲ付ヘシ。

 

一eq €o(€s€up 10(メレコニヤト云血ヨリ発),寒燥ノ腫物)散薬ノ性ハ熱燥也燥ヲ以テ身カカヱツヨリシテ熱ヲ以テ冷血ヲ温メトカシ薄ナシテ散ナリ

一 ヒリウト云ハ寒ヲ云是ヨリ出タル腫物ハ身色ニシテ痛少自然ト腫上ル也療治ハ成程温散スヘシ

ヒリウト云ハ冷ヨリ出タル腫物を云也。身色ニシテ痛少ク。ジネント腫上ル也。治方ハナルホド散スベシ。

 風気ヨリ生ル腫物之事冷タル次第に温解行時廻リ温リ少キ時風邪ニアテラレ腫物ト成其シルシハ腫上リ色ハ白クシテスキ遍光有也金物ニテ打テ見ルニ風ノ吹音有

一 風气eq €o(€s€up 10(ヘンテト云ハ風ノ),ヨリ生ル腫)

eq €o€al(€s€up 10( 事也),物ハ) 手ニテイロヒテミルニ和ニシテスキ通リ光有金ニテ打テ見ルニ風ノ吹音有

一 ヘンテト云ハ風ヲ云是ヨリ生ル腫物ハ手ニテイロヒ見ルニ和ニシテスキ通リ光有也是モ冷血ヨリ發其子細ハ冷テ血順ル事不成

ヘンテト云ハ風気ヨリ發ル腫物ヲ云也。是モ冷血ヨリ出其子細ハ冷テ血順ズル事ナラズ。

 濕痰ヨリ出タル腫物ハ寒濕也是ヨリ生ル腫物ハ和ニメホメカス色白ヘレマト云血水ヨリ発

一 痰ヨリ生シタル腫物ハヱイリウノ如ク腫上リ少堅シテ急ニ痛事ナシ療治ハ温テ散之

一 ヘレマト云ハ湿痰ノ腫物ヲ云成寒ト濕ト交合セテ出ル物也。験ニシテ色白

ヘレマト云ハ濕痰ノ腫物ヲ云也。寒ト濕トマゼ合セ出ルモノ也。シルシハヤハラカニシテ色白ク。

 

ここでもポルトガル語から引き継いだ用語がさらにいくつか見られる。

 

用語

語源。ラ=ラテン語、ポ=ポルトガル語

現在の訳語

ヘイビリ

febre (ポ)、 febris (ラ)

ヒリウ

frio (ポ)、 frigus (ラ)

ヘンテ

vente (ポ)、 ventus (ラ)

 

この腫物の分類は上記のヨーロッパのものとの類似性が見られるが、著者を特定することは、残念ながらまだ不可能である。本来ここには「複合の腫物」である Phlegmone erisipelatodesやOedema scirrodes等々が来るはずであったが、おそらく内容的に把握が困難だったのであろう。また、翻訳の際に仏教などの東洋医学の要素が混ざったようである。例えば、「熱寒風痰」は、6世紀に中国語に翻訳され、江戸時代の日本では未知のものではなかった「金七十論」( Samkhyaksika)にみられる「風熱痰」(tridosah)の概念を思わせるものがある。

 

 各種腫物の個別論

上記の「見様」の腫物は原因である体液により定義され、本来の名称を示すものは欠けている。それに対し、引き続く個別論の腫物には、片仮名標記の名称及びその「日本語訳」や説明が付いている。[63]

 

原文での名称

原文の解釈

語源。ラ=ラテン語、ポ=ポルトガル語

アツフスデイミ

Apostema (ラ)、 apostema (ポ)

カランゲイシヨ

carangueja, caranguejo (ポ)、 cancroma (ラ)

アフセス

疔瘡

Abcessus (ラ)、 abcesso (ポ)

カンゲレナ

麻木

Gangraena (ラ)、 gangrena (ポ)

ハナリシヨ

標疽

Panaritio (ラ)、 panarício (ポ)

アカブソ

水腫物

Hydrops(ラ)[64]

アルニヤ

キン玉ニ出来ル腫物

Hernia(ラ)、hérnia (ポ)

シイロ

 

Scirrhus (ラ)、 escirro (ポ)

カンコロウ

 

cancer (ラ)、 cancro (ポ)

アネウリツマ

心経腫

Aneurysma (ラ)、 aneurisma (ポ)

 

個々の腫物の発生、特徴、治療について記されており、南蛮流外科の描写と比べると、目に見えて詳細になっている。

「アフセスト云ハ疔瘡ノ事也大形面手足ニ発其形大豆粒ニシ膿ヲイタダキ出ル是モ初発ニ痒物ナリ後痛事タヱカタシ气ヲ失程毒血也針 タチワリミルニ底ニ堅リタル膿アルヲ取出シテ其跡ニインクエントアボストロウルンヲホツリ木綿ニ浸押込其上ニエンフラストムスラキニブスヲ付ルナリサリナ ガラ面ニ発疔ニ針ヲスベカラズ心経肝経ニ発疔杯ニ針スレハ血走テ不止故ニ死也和成療治ノ仕様ハ先白キ物ヲイタタキ出ル其白キ物ヲソツト切テステインクエン トハシリコンヲホツリニ付テ下地ニ付テ其上ニエンフラストムスラキニブスヲ付ルナリ」[65]

後世の文書では腫物の数が「阿蘭陀外科医方秘伝」よりもいくらか多く記述されている。所々の漢字訳は東洋医学の概念への転用を示している。

 

「阿蘭陀外科医方秘伝」

「阿蘭陀外科書」萬治元年

『阿蘭陀外科指南』

アツフスデイミ(癰)

アツフスデイミ、カンダラス

アツフスデイミ

カランゲイシヨ(疽)

カランゲイシヨ

カランゲイシヨ

アフセス(疔瘡)

アプセス、カルフンコ

アフセズ

カンゲレナ

ガンゲレナ

カンゲレナ

ハナリシヨ(標疽)

ハナリシヨ

ハナリシヨ

コレラ

アネウリヅマ

アネウリツマ

アカブソ(水腫物)

コレラ

コレラ

アルニヤ(キン玉ニ出来ル腫物)

アカブソ

アカブソ

ヤシイロ

アルニヤ

アルニヤ

カンコロウ(小瘡疥癬の類)

ヤシイロ

ヤシイロ

アネウリツマ(心経腫)

カンコロウ

カンコロウ

 

ゼイルメンス(下疳瘡)

カンダラス

 

ヘストロ(急所ノ腫物)

セイルメス

 

ハルサスリゼイル(喉之痛)

 

 

ケントロホツク(疱瘡)

 

 

腫物の経過をヨーロッパ古典では「発生」、「成熟」、「最盛」、「収縮」の段階に分けていた。この考え方はカスパル流医書の記述にも見られる。発生期の腫物は「押薬」( Repellativa)で押さえようとした。「散薬」(Resolutiva)は病因となる物質を揮発性の蒸気に変えるとされた。腫物の発生を止められない場合は逆に「膿薬」( Maturativa)により化膿を早めようとした。化膿したものはランセイタ(lanceta)で切開し、メイチャ(ポルトガル語 mecha)と呼ばれた糸を挿入し、膿などを出してしまう。それから薬油と軟膏をすり込み、「肉の成長」を促進する膏薬を付ける。「阿蘭陀ハ腫物ニシテ薬ヲモ不付子細アリ」というふうに説明の背景を示す箇所もある。[66] 軟膏としては Unguentum Apostolorum、 Unguentum Basilicum、 Unguentum Aegyptiacum、 Unguentum Camphoratum、 Unguentum Aureumの名が挙がっている。膏薬としては Emplastrum Defensivum、 Emplastrum Diachylon、 Emplastrum Mucilaginibus、 Emplastrum Diapalmae、 Emplastrum Meliloto、 Emplastrum Oxycroceumを用いている。

 

 「金瘡の部」

当時のヨーロッパの外科書と同様に、腫物の部の次には傷の部が続く。その冒頭には「致死傷」についての記述があり、「阿蘭陀外科医方秘伝」では「ハルスヲンド」という明らかにラテン語系でない題名が目に付く。オランダ語の hart(心臓)の片仮名表記として「ハルス」は考えにくいので、おそらくこれはドイツ語の Herzwunde(心臓の傷)だと思われる。中村宗興はこの金瘡の部をどこかから入手し「金瘡治要」という題名で貞亨元年(1684年)刊行の『紅毛秘伝外科療治集』に取り入れている。 さらに、「口伝」によるものとして療治可能な傷の章及び突傷、弓傷、鉄砲傷の記述が、要約された形で寛文10年(1670年)刊行の『阿蘭陀外科良方』の第4巻にも見られる。

この金瘡部の内容上の主なテーマは以下の通りである。

 

図9

「阿蘭陀外科医方秘伝」

「阿蘭陀外科書」

(萬治元年)巻2

『紅毛秘伝外科療治集』巻2

『阿蘭陀外科指南』

巻3

金瘡

金瘡部

金瘡治要

金瘡部

ハルスヲンド

療治不成疵

必定死疵之事

必定死疵之事

骨杯切離タル時

療治可成疵療治ノ事

不死疵療治ノ事

(不死疵療治ノ事)

切疵初テ療治ノ仕ヤウ

筋切タル筋切タル時

腹ヲ切膓出タル時

腹ヲ切膓出タル時

打疵、砕タル疵、高ヨリ落ナトシタル疵

血留薬

砕タル疵、鉄砲疵、高ヨリ落ナトシタル疵

砕タル疵、鉄砲疵、高ヨリ落ナトシタル疵

血ヲ止ル事

腹ヲ切腸出タル時

突疵

突疵

ネルボノ疵(髄筋疵)

砕タル疵、鉄砲疵

血止ル事

血ヲ止ル事

頭ノ疵

突疵

疵ノ縫ヤウ

疵ノヌイヤウ

女ノ頭ノ疵

疵縫樣

髄筋疵之事

髄筋ノ疵

 

髄筋ノ疵

頭ノ疵之事

頭ノ疵

 

頭ノ疵

夫人頭ノ疵

胸疵、肺疵、胃ノ腑疵等など

 

胸疵、肺疵、胃ノ腑疵等など

胸疵、肺疵、胃ノ腑疵等など

 

 

長さ、テーマの順番の上での相違点はあるものの、文章の内容を比べると、これらの「金瘡部」は間違いなく同じ文献(猪股伝兵衛の報告)に由来するも のと断言できる。治療可能な傷の場合は、その傷を木綿と暖かい焼酎できれいにしてから、麻の糸に蝋をつけて、まず傷の真中を一針据え、脇は傷の長短により 間を5分程宛て縫う。糸は、傷の脇に結んでおく。卵の白身と椰子の油を等分に粘りがないように混ぜ合わせ、「ホツリ木綿」を傷の長さに拵え卵の白身に浸 し、傷に付ける。冬は一日に一度、夏は2度、宛薬を付け替える。5日ないし7日後に、糸を切って抜き、付薬には卵の黄身を「ヲヽリヨテレメンテイナ、ヲヽ ヲリヨイツヘリコン」と一緒に木綿に浸して付ける。肉が89分目に上がった時は、「エンフラストテヤハルマ」を木綿に伸してその膏薬を巻き付ける。[67]

「止血」の章ではガレノス説を反映する形で動脈(ポルトガル語、ラテン語 arteria)と静脈(ポルトガル語 veia)について述べられている。

「アルデリヤト云ハ心経ヨリ出ル血ナリ此血色少薄シテ上々ノ紅ノ如シ出ルニ走リトブスヘヤト云ハ肝経ヨリ出ル此血ハ色コクシテ出ルニシヅカニ流ネバキ血ナリ」[68]

「阿蘭陀外科医方秘伝」によれば、シャムベルゲルは傷の4つの処方を紹介している。

「一色ハ疵ヲ焼酒ニテ洗ヌウテ止ル二ツニワ打破リ肉タタレタルヲバ切テ捨ウサギノ毛ヲ細ニ刻ミ乳香アゼベレノ木皮 粉ニシテ合疵ノ口ニホツリニ付テツクル血止テ後ハ玉子ノ白ヲ木綿ニ浸付テ其上ニ酢ニ水ヲ合木綿ニ浸蓋包縫置ナリ右ニ云アネウリツマノ血ヲ止ル薬モ良三ツニ ハ血筋ヲ縫事右ニ云心経ノアネウリツマノ血ヲ止ル如シ4ツニハ血ノ出ル口ヲ焼止ル事是ハ腫タル所ヨリ血出ルヲ焼テ止リ血モ止物ナリ焼タル跡ニハ丹礬ヲ焼テ 粉ニシテ捻リ掛ルホツリヲ蓋ニメ愈々置ナリ血ヲ止テ三日置テ其後疵ノ養生スルナリ但是ハ古流ナリ當流ニハ右ノ如ニ焼酒ヲ温テ血ノ止ルマテ洗」[69]

さらに血石はオランダ語の発音でブルウトステン(bloedsteen)として紹介されている。

神経の損傷についてはかなり詳細な記述の冒頭にポルトガル語由来のネルボ(nervo)の定義が目につく。

「ネルボノ疵四色有 ネルボト云ハ髓筋ノ事ナリ髓筋ト云ハ筋ニ血モナク堅筋也」[70]

神経の所在についての説明を反映する「髓筋」というのは訳者が新しく造語した日本語であり、正確な理解に至っていたとは思えない。訳語の「髓筋」は後世の多くの文書に伝わり、中村宗興の『紅毛秘伝外科療治集』及び『阿蘭陀外科指南』により一般に定着したようである。[71]

このネルボの傷害は4種に分けられている。

「一ツハネルボ突疵二ツニハネルボ横ニ半分切タル疵二ツニハネルボ皆切タル疵四ツニハネルボ立ニ割タル疵」

頭の切疵、突疵、打疵についての記述は極めて詳細なものになっている。「阿蘭陀外科医方秘伝」は女性の頭傷をもって金瘡の部を終わらせているのに対 し、「阿蘭陀外科書」及び『阿蘭陀外科指南』には胸疵、肺疵などなどその他の記述が続いている。しかし、ヨーロッパの書ではここに引き続く鉄炮傷、骨折、 脱臼、ペストが、3書すべてに欠けている。また、疵の関係では「脳ヲ包(ム)薄ヨウ」(脳膜)、「胸ト腹トノヘダテ皮」(横隔膜)[72]、「髓筋」、幾つかの、東洋医学に見られない断片的な記述はあるが、それは体系的な解剖学には至らなかった。[73] 

「阿蘭陀外科書」及び『阿蘭陀外科指南』は「阿蘭陀外科医方秘伝」よりも整理され、いくらか詳細になっている。また、『阿蘭陀外科指南』の内容はあ らゆる点において「阿蘭陀外科書」との密接な関係を示している。文献学的には2通りの説明が考えられる。猪股の報告書が元々「阿蘭陀外科書」に見られるよ うな形式であったとすれば、「阿蘭陀外科医方秘伝」では一部が欠落していることになる。あるいは「阿蘭陀外科医方秘伝」がほぼ原型のままであり、後の写本 で補足、整理されたのかも知れない。

いずれにしても、この背後にあったヨーロッパの書物についての問題も浮上してくる。別の箇所ですでに紹介しているように、シャムベルゲルは1650年の6月に出島商館から医書を江戸へ送ってもらった。[74] その中にはパレの著作もあったに違いない。上記の腫物及び外傷の記述にはパレとの多くの類似点が見られるが、はっきりとした相違もあるので、シャムベルゲルが複数の医書を用いたという可能性は高い。

 


脚注
[1]    ヴォルルガング・ミヒェル「日本におけるカスパル・シャムベルゲルの活動」『日本医史学雑誌』第41巻第1号、3〜28頁、1995年3月(平成7年)。
[2]     シャムベルゲルの弔辞による。 Stolberg-Stolbergsche Leichenpredigtsammlung (Wolfenbüttel) 19803, Lebenslauf (履歴) , p.69。
[3]     Stadtarchiv Leipzig, Tit. LXIV 29, fol. 6b - 10(ライプチヒ市文書館、外科医組合規定、1627年11月27日)。
[4]     Johann Jacob Vogel: Leipzigisches Geschichts-Buch Oder Annales [...] biss in das 1714. Jahr. p. 535 - 557, Leipzig 1714. Otto Rudert: Die Kämpfe um Leipzig im Großen Kriege 1631-1642. Schriften des Vereins für die Geschichte Leipzigs, Bd. 20/21, p. 122 - 129, Leipzig 1937.
[5]     Vogel (1714), p. 565f.。
[6]     Stolberg-Stolbergsche Leichenpredigtsammlung (Wolfenbüttel) 19803, Lebenslauf, p.70.
[7]     血液の循環の説明は極めて単純であり、ハーヴェイの研究の影響は全くみられない。 Cornelisz Herls: Examen der Chyrurgie. Broer Jansz, Amsterdam 1645.
[8]     千葉大学付属図書館。
[9]     古賀十二郎『西洋医学伝来史』60頁、形成社、東京、1972年(昭和47年)。
[10]     片桐一男『阿蘭陀通詞の研究』209頁、東京、1985年(昭和60年)。
[11]     NFJ 60, DD 26.11.1646。オランダの国立中央文書館( Algemeen Rijksarchief, s'Gravenhage = ARA)の資料についての略号。 ARA 1.04.21, Nederlandse Factorij Japan = NFJ + 番号。出島商館日誌の資料にはさらに DDを付記する(NFJ + 番号、 DD + 日付)、またはARA 1.04.02、オランダ東インド会社 = VOC + 番号。その他の資料については toegangsnummerを付記する。
[12]     宗 田一「日本の売薬(17)−オランダ膏薬・カスパル十七方」『医薬ジャーナル』巻14巻巻5号、113〜119頁、1978年(昭和53年)。宗田一「カスパルの江戸での伝習について−阿蘭陀外科医方秘伝の紹介」『日本医史学雑誌』巻26巻巻3号、97〜98頁参照。「阿蘭陀外科医方秘伝」(東京、故佐藤文比古蔵書)。宗田一氏のご好意によりこの文書のコピーを譲って頂いた。その上さらに当を得たご教示を賜ったことに併せて謝意を表する次第である。
[13]     宗田一『日本医療文化史』127頁、思文閣出版、京都、1989年(平成元年)。
[14]     川島恂二『土井藩歴代蘭医河口家と河口信任』73〜74頁、近代文芸社、東京1989年(平成元年)。
[15]     岩治勇一「和蘭陀外科免状(題簽)ーアルマンス流阿蘭陀外科之濫觴」『日本医史学雑誌』第34巻第2号、31〜34頁、1988年(昭和63年)。
[16]     川島恂二『土井藩歴代蘭医河口家と河口信任』77〜84頁。
[17]     NFJ 69, DD 8.5.1656, NFJ, DD 27.5.1656, 12.6.1656, 16.6.1656, 10.7.1656, 30.7.1656。
[18]     NFJ 31, p.23 (Instructie 4.11.1649) 。
[19]     NFJ 484 (Brouckhorst より Bijlevelt 宛の書簡、 Nagasaki 3.8.1650)。
[20]     NFJ 66, DD 29.11.1652.
[21]     NFJ 68, DD 23.7.1655, 25.7.1655, 26.7.1655。
[22]     富士川游「猪股家系」『中外医事新報』第1211号、9頁、1934年(昭和9年)。
[23]     「伝兵衛役儀指上子伝四郎向井元升門人」。
[24]     川島恂二『土井藩歴代蘭医河口家と河口信任』。河口良庵などの貴重な文書を見せて頂いた河口広一氏のご好意に心から感謝するとともに、また併せて、川島恂二氏の暖かいご指導にも心からなる謝意を表する次第である。
[25]     川島恂二『土井藩歴代蘭医河口家と河口信任』、79〜88頁。
[26]     岸本裕「本朝和蘭陀外科所謂カスパル流外科の本」『日本醫事新報』第802号、331〜332頁、1938年(昭和13年)。
[27]     岸本裕「日本醫事新報」第802号、331頁。
[28]     川島恂二『土井藩歴代蘭医河口家と河口信任』、73〜74頁。
[29]     岸本裕「日本醫事新報」第802号、331頁。
[30]     川島恂二『土井藩歴代蘭医河口家と河口信任』73〜74頁。
[31]     川島恂二『土井藩歴代蘭医河口家と河口信任』89〜91頁。
[32]     川島恂二『土井藩歴代蘭医河口家と河口信任』87頁。川島恂二「河口良庵著述「阿蘭陀外科要訣全書」から」『古河市医師会報』第26号、1〜5頁、1994年12月1日(平成6年)。
[33]     川島恂二『土井藩歴代蘭医河口家と河口信任』、88頁。
[34]     古河市川島恂二氏蔵書。川島氏にこの文書のコピーを譲って頂いた。ここに謝意を表する次第である。川島恂二「新発見 河口良庵著「阿蘭陀語」帖から」『古河市医師会報』第24号、7〜15頁、1992年12月1日(平成4年)。
[35]     「諸薬口和」伊予大洲城 良庵河口春益編輯(文化12年写)、早稲田大学図書館。
[36]     ミヒェル「日本におけるカスパル・ジャムベルゲルの活動について」7〜8頁。
[37]     NFJ 70, DD 4.3.1657参照。
[38]     NFJ 1168 (Specificatie aller ongelden mitsgaders schenckagie gedaan bij den gesant Andries Frisius en't opperhooft Anthonij van Brouckhorst gedurende hare reijse naar Jedo 't zedert 25. November 1649 tot 22. Maij ao 1650), fol. 8v.
[39]     関場不二彦『西医学東漸史話』上下、吐鳳堂書店、東京、1933年(昭和8年)。古賀十二郎『西洋医術伝来史』66〜67頁。
[40]     酒井シヅ、小川鼎三「『解体新書』出版以前の西洋医学の受容」『日本学士院紀要』35巻3号、132〜133頁、1978年(昭和53年)
[41]     「阿蘭陀外科医方秘伝」79頁。
[42]     大槻如電『洋学編年史』102〜104頁、錦正社、東京、1965年(昭和40年)。
[43]     「阿蘭陀外療集」巻6、11頁、(河口良庵著 藤山新作宛秘伝書、延享3年(1746年)、慶応大学医学メディアセンター、富士川文庫)。
[44]     「紅毛外科書」(内題「紅毛外科集」)、下巻、79頁(京都大学付属図書館)。
[45]     「紅毛外科書」下巻、60頁(京大)。
[46]     「阿蘭陀外科書」(杏雨書屋、大阪)。「阿蘭陀外科書」西元甫、杉田甫仙、水野甫碩著(慶応大学医学メディアセンター、富士川文庫、 Fーオー15)。『阿蘭陀外科指南』(元禄9年刊)。
[47]     ミヒェル「日本におけるカスパル・シャムベルゲルの活動」4〜6頁。
[48]     「カ スパル伝方」(京都大学付属図書館、富士川文庫)。「阿蘭陀加須波留秘方」(成田市、成田仏教図書館)。「阿蘭陀加須波留秘密之方」(京都市、宗田一蔵。 宗田氏にこの文書のコピーを譲って頂いた。ここに謝意を表する次第である)。「阿蘭陀外科」(京大、富士川文庫)。「阿蘭陀外科一流書」(京都市、宗田一 蔵)。「阿蘭陀外科書」(杏雨書屋)。「阿蘭陀外科書」(9州大学医学部付属図書館)。「阿蘭陀外科書」(慶応義塾大学医学メディアセンター、富士川文 庫)。「阿蘭陀外科書」(和田医学史料館。京都市の和田知代史氏にこの文書のコピーを譲って頂いた。ここに謝意を表する次第である)。「阿蘭陀外療 集」(慶大、富士川文庫)。「阿蘭陀外療秘伝」(慶大、富士川文庫)。「阿蘭陀十七方」(東京大学総合図書館)。「阿蘭陀南蛮口一切和」(慶大、富士川文 庫)。「阿蘭陀流外科」(京大、富士川文庫)。「阿蘭陀流外科書」(京大、富士川文庫)。「阿蘭陀流外科書伝」(慶大、富士川文庫)。「阿蘭陀流外 治」(慶大、富士川文庫)。「阿蘭陀流伝授本」(京都市、宗田一蔵。宗田氏にこの文書のコピーを譲って頂いた。ここに謝意を表する次第である)。「外科加 須波留方」(慶大、富士川文庫)。「外科要訣」(古河市、河口家蔵)。「紅毛膏液」(東京大学総合図書館)。「紅毛外科」(慶大、富士川文庫)。
[49]     中村宗興『紅毛秘伝外科療治集』、貞亨元年(1684年)、京都山本長兵衛刊行(慶応義塾大学医学メディアセンター)。
[50]     「阿蘭陀外科医方秘伝」3頁。
[51]     calidum innatum。
[52]     「阿蘭陀外科医方秘伝」3頁。
[53]     Ambroise Paré: Oeuvres complètes. Ed. J.-F. Malgaique. Vol.1, Chap. 3 - 9, Vol.5, Chap. 6 (p. 326), Paris 1840 - 1841。
[54]     Guy de Chauliac: Chirurgia Magna. p. 49 - 118, Stephan Michael, Lugduni, 1585. 又、 Hieronymus Fabricius ab Aquapendente: Opera Chirurgica. p. 1 - 8, Ex Officina Boutesteniana, Lugduni Batavorum, 1723.
[55]     óleo rosado = Oleum Rosato, Rosaceum, óleo violas = Oleum Hyperici, óleo solanum = Oleum Solanum, óleo laurinho = Oleum Laurinum。
[56]     Emplastrum Defensivum。
[57]      óleo cravo = Oleum Cariophyllum。
[58]     Emplastrum Defensivum, Emplastrum Diachylon。
[59]      Emplastrum Mucilaginibus。
[60]     mecha, Unguento Apostolorum = Unguentum Apostolorum。
[61]     Emplastrum Diapalmae。
[62]     「阿蘭陀外科医方秘伝」4〜6頁。
[63]     「阿蘭陀外科医方秘伝」9〜24頁。
[64]     「アカブソ」はラテン語 aquaかポルトガル語aguaに由来しているようだが、当時のヨーロッパの医書にはHydropsという用語しか確認できなかった。
[65]     「阿蘭陀外科医方秘伝」11〜12頁。
[66]     「阿蘭陀外科医方秘伝」11頁。
[67]     「阿蘭陀外科医方秘伝」26頁。
[68]     「阿蘭陀外科医方秘伝」28頁。
[69]     「阿蘭陀外科医方秘伝」28〜29頁。
[70]     「阿蘭陀外科医方秘伝」29頁。
[71]     『紅毛秘伝外科療治集』第2巻、『阿蘭陀外科指南』第3巻。
[72]     「阿蘭陀外科医方秘伝」25頁。
[73]     酒井シヅ「江戸時代の西洋医学の受容 ー 解剖学を中心にみて」吉田忠他『東アジアの科学』勁草書房、5〜49頁、東京、1982年(昭和57年)参照。
[74]     NFJ 282 (商務員 Bijleveltより商館長 Brouckhorst宛の書簡、 Edo 7.6.1650。
[75]     関場不二彦『西医学東漸史話』上巻、161頁。
[76]     Pharmacopoeia August.1613, 1629 (A), Dispensarium Vsvale pro Pharmacopoeis inclytae Reipvp. Coloniensis. Coloniae1565 (B), Pharmacopoea Londinensis. Londini 1618 (C), Pharmacopoea Amstelredamensis 1636 (D), Pharmacopoea Amstelredamensis 1639 (E). D.A. Wittop Koning (ed.): Facsimile of the First Amsterdam Pharmacopoeia 1636. Nieuwkoop, B. de Graaf, 1961. George Urdang (ed.): Pharmacopoeia Londinensi of 1618 reproduced in facsimile. Madison State Historical Society of Wisconsin 1944.
[77]    = 一致している、≠ 一致していない、≈ ほぼ一致している。
[78]    D.A. Wittop Koning: De Oorsprong van de Amsterdamse Phamacopee van 1636 Pharm. Weekblad 85, p.801 - 803, 1950. または、 D.A. Wittop Koning (1961) p. 12 - 28, 1961.
[79]    Pharmacopoea Amstelredamensis (1636), p.107。「阿蘭陀外科医方秘伝」、50頁。
[80]     「阿蘭陀外療集」巻6(慶大、富士川文庫)。「カスパル口伝薬方」(京都大学付属図書館、富士川文庫)。「紅毛外科書」(京大学付属図書館)。「阿蘭陀膏 薬」(京大、富士川文庫)。「カスパル流伝授本」(故宗田一蔵、京都市)。「外科要訣」巻3(河口家蔵、古河市)。『阿蘭陀外科指南』巻2。「阿蘭陀流外 科書」(京大、富士川文庫)。「阿蘭陀外科伝」(京大、富士川文庫)。「阿蘭陀カスパル秘方」(「繕生室医話」巻4(京大、富士川文庫)。「阿蘭陀秘伝膏 薬」(京大、富士川文庫)。「阿蘭陀外科書」(9州大学医学部付属図書館)。「阿蘭陀外科書」(杏雨書屋、大坂市)。「阿蘭陀外科書」(慶大、富士川文 庫)。「阿蘭陀カスパル伝抜書」巻4、5(杏雨書屋、大坂市)。「紅毛膏液」(東京大学総合図書館)。
[81]     宗田一「日本の売薬(17)−オランダ膏薬・カスパル十七方」117頁。
[82]    「オランダ外科秘伝書」内題「阿蘭陀可壽波留流」井澤元民于紀州華岡塾中。(1810年)(大阪、杏雨書屋)。
[83]     例えば「カスパル伝薬方」(京大、富士川文庫)。
[84]     NFJ 773(送り状 Casteel Batavia, 27.7.1649, Robijn号)。
[85]    「阿蘭陀外科医方秘伝」78、79頁。
[86]     「阿蘭陀加須波留伝膏藥方 附油藥水藥方」享和元年辛酉夏4月(1801年)井澤元民于紀州華岡塾中、29〜34頁、杏雨書屋(大阪)。「油取様書」、「和蘭薬品主治部」嵐山甫安自筆、明月亭写本、11頁〜、杏雨書屋(大阪)。
[87]     宗田一『渡来薬の文化誌』8坂書房、東京1993年(平成5年)。
[88]     (A)「阿蘭陀薬使様 井上筑後守殿 上写」(「阿蘭陀外科医方秘伝」)、(B)「萬渡薬使様 阿蘭陀外療書口伝」(「阿蘭陀外療集」巻7)、(C)「阿蘭陀薬種能毒カスバル伝渡薬」(「阿蘭陀加須波留伝膏藥方」)、(D)「阿蘭陀薬品主治部」(「阿蘭陀薬品主治部」)
[89]     語源の綴りは当時の通り。参考資料は (a) Américo Pires de Lima: A Botico de bordo de Fernão de Magalhães. Anais da Faculdade de Farmácia do Pôrto. p. 33 -109. Pôrto 1942. (b) Robertus de Farvaques: Medicina Pharmaceutica, of Groote Schatkamer der Drogbereidende Geneeskonst. Isaak Severinus, Leiden 1741.
[90]     ミイラの語源の問題について宗田一「阿蘭陀舶載薬の薬効等」『日本医事新報』第3623号、138頁、1993年10月2日(平成5年)参照。
[91]     「人魚」海牛のポルトガル名( Trichechus manatus manatus, Trichechus manatus inunguis, Trichechus manatus senegalensis)。
[92]     当時のオランダ語文献には Amfioen、 Amphioenという語形が見られ、それは恐らくアラビア語の afyumに由来するものと思われる。
[93]     宗田一の詳細な分析によれば、ビリリについて様々な説がある。宗田一『渡来薬の文化誌』123〜140頁、8坂書房、東京、1993年(平成4年)。出島蘭館日誌のある記述によれば「ビリリ」は同名の魚の血( bloet van d’visch Biriri)であったかも知れない( NFJ 92, DD 22.2.1679)。
[94]     ポルトガル語の confeiçao de jacintosの発音が多少残っているようである。
[95]     イストウラスにはポルトガル語の estoraqueの影響が感じられる。
[96]     「阿蘭陀加須波留秘方」(成田市、成田仏教図書館)、5〜14頁。
[97]     「カスパル伝薬方」文正壬年写(京都大学付属図書館、富士川文庫)、3〜13頁。「紅毛膏液」(東京大学総合図書館)、1〜12頁。「阿蘭陀加須波留伝膏藥方 附油藥水藥方」(杏雨書屋)、20〜21頁。
[98]     「阿蘭陀加須波留秘方」6頁。
[99]      NFJ 65, DD 24.5.1652。
[100]     ヴォルフガング・ミヒェル「17世紀の平戸・出島蘭館の医薬関係者について」『日本医史学雑誌』第41巻第3号、85〜101頁、1995年9月(平成7年)
[101]     「南蛮流外科書」巻下。「和蘭ステイヒン伝来 南蛮流外科書」(京都大学付属図書館、富士川文庫)1〜14頁。
[102]     海老澤有道『南蛮学統の研究』497〜512頁、増補版、創文社、東京1978年(昭和53年)。
[103]     NFJ 64, DD 14.11.1650; NFJ 65, DD 24.5.1652; NFJ 66, 17.1.1653; NFJ 776 (送り状 Casteel Batavia, 11.7.1652); NFJ 776(送り状 Casteel Batavia 11.7.1652) ; NFJ 67, DD 31.1.1654; NFJ 69, DD 16.2.1656など参照。
[104]     阿知波五郎『近代医史学論考』上、39〜46頁、思文閣出版、東京、1986年(昭和61年)。宗田一「南蛮医学から蘭方医学へ」薬事日報、第3439号(蘭学資料研究会第6回大会講演要旨)。
[105]     それぞれの蘭館医についてミヒェル「17世紀の平戸・出島蘭館の医療関係者について」参照。
[106]     川島恂二「新発見 河口良庵著「阿蘭陀語」帖から」『古河市医師会報』第24号、1〜9頁、1992年12月(平成4年)。川島氏にこの文書のコピーを譲って頂いた。ここに謝意を表する次第である。

 

 

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