Wolfgang Michel: On the introduction of Moxa in Europe: Life and Writings of Hermann Buschoff [in Japanese]. Bulletin of the Japan-Netherlands Institute, Vol.23, No.1 (No.45) (Tokyo, Oct. 1998), pp.47 - 63.

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Cover Nichiran gakkaishi

 

ヴォルフガング・ミヒェル

ヨーロッパにMoxa(もぐさ)を紹介したバタビアの牧師
- ヘルマン・ブショフの生涯と著作について -


西洋医学が日本に及ぼした影響についてはさまざまな研究がなされているが、東洋医学がすでに16世紀後半からヨーロッパで受容されていたことは、ニーダム、魯桂珍や、その他の専門家でさえ認識していない。興味深いことに、中国が東へ進出するヨーロッパ人との接触を拒否していたため、「中国医学」と西洋人との最初の出会いの場は中国ではなくその周辺の国々であった。本論文で検討するお灸の場合もそうであった。もっとも古い記述は日本で活躍していたイエズス会士が残しているし、また、「もぐさ」(Moxa)という名称をヨーロッパにもたらしたのもバタビアの牧師ヘルマン・ブショフ(Hermann Bus(sc)of(f), 1620? - 74)であった。彼の名前は、多くの先行研究に見られるが、その生涯および著作の内容についてはほとんど触れられていない。[1]

 

 

  ブショフ以前のヨーロッパ人が観察した灸術

今日残っているお灸についての最初の記述は1584年1月6日付け、ポルトガルのコインブラにあるコレジオの院長、ミゲル・デ・ソウサ(Miguel de Sousa)に宛てた書簡の中に見られる。その中で、日本からマカオへ戻ったロレンソ・メヒカ(Lourenço Mexica神父が日本列島の土地と人々について、とりわけ、日本人の体調について詳細に述べている:

「一般に日本人は非常に健康で、これは非常に温暖で健康的な気候による。彼らは小食で、病因となりやすい冷水を飲まない。病気になっても、ほとんど薬を用いずに短期間で快復する。彼らの習慣では、腹や腕、背中などが病気になった時はいつも銀製の鍼を刺す。同時に薬草から作った火のボタンも用いる。彼らの眠りは非常に浅く短く、そのためお茶を飲む。」

この書簡は1598年、有名な日本布教の書簡集で発表された。[2] 「火のボタン」(botão de fogo)についての記述は、以前からヨーロッパへ送られたようである。しかし「火のボタン」は本来、けがの治療や体内の汚物をだすための化膿を引き起こすことに用いられた、先が尖った焼きごてのことだったので、上記のような書簡の読者の間にさまざまな誤解を惹き起こしたことは容易に想像できる。そのためか、著名なルイス・フロイス(Luis Frois)は、その『日本教会史』(Historia do Japão)の序文で多少の説明を付け加えざるを得なくなっている:

「眼またはリュウマチスを患っている病人を治療するのに、3、4千の火のボタンを身体につけると書かれた(場合にも)同様の(ことが言い得る)。それは日本では非常に一般的なことであって(よほど)話を割り引いて、解してもらいたい。というのは、その火のボタンとは、当地では、乾いた(空白アリ)を豆粒もしくは大型の柘榴粒くらいの小球にしたもので、その上部に点火し、肉体の上に置き、すぺて燃え(尽す)まで火をつけた(ままに)する。それは非常に手軽なことで、同し場所に15か20個置いておくと、その箇所の肉はすでに厳しく鍛えられているから、それ以上(置いても)ほとんど疼痛を感じなくなる。したがってそれらは私たち(ヨーロッパ人が言うような)「烙鉄」のごときものではない。私自身、その日本のを試みたことがあって、種々の疼痛や眼病のために3000個以上、背中や膝に(その小球を)置いたのであった。」[3]

同じく1585年にフロイスが著した『欧日比較文化論』では、ヨーロッパ人は治療のため瀉血を行うが、日本人は草による火のボタンを用いる、と記されている。[4]

その後1601年にバルセロナで、東アジアでの布教の状況を紹介する『フィリピン諸島と王国としての中国、[…]及び日本の歴史』が刊行されている。著者のフランシスコ会士マルセロ・デ・リバデネーラ(Marcello de Ribadeneira)は、日本では漢籍を用いる医師が多いと報告し、さらに次のように述べている:

「彼らは小さな火のボタンを用い、これを痛む場所に置く。たとえば腹や背中に置いて、米について来た虫を追い出す。こうして綿毛のような小さな玉で肉を焼き、水泡を作る。この方法でたいていの病気は軽くなり、これは病気は全て冷えることが原因だからだ、と言う。」[5]

1603年に長崎で印刷された『日葡辞書』では初めて「もぐさ」という言葉が現れた。[6] ここで、もぐさとヨモギは「火のボタン」を作るための薬草として説明され、[7] また、よもぎ、フツ、灸治、やいとう、やいひ、皮切りの方言や類語なども紹介されている。[8]

1609年からオランダの東インド会社は平戸に商館を置いていたが、今日まで残っている資料には灸術に関する記述は見いだせない。しかし、近くにあったイギリス商館の館長コックス(Richard Cocks)は、あらゆる文化的事象をつぶさに観察し、日誌に書き留めている:

[1617年5月28日 = 元和3年5月4日]「この祭りはこの5月の初めに始まり5日に終わる。その日が明日にあたり、中国でも日本でも主要な日となる。この日には、家の軒全体を緑色の菖蒲(又はヨモギ)で覆う。これには緑色の別の草を混ぜるが、これはそれから1年間を通して保存し、乾かして小さな火縄を作る。足でも腕でもその他の場所でも痛みを感じたら、瀉血をする代わりにこれで身体を焼く。つまり、私たちが通常、病人に瀉血を施すように、彼らはこの草を燃やすのが常であり、この日に清めたものが最良だとされている。」[9]

次の記述はオランダの東インド会社の関係者によるもののようである。ロンドンでRoyal Society for The Promotion of Natural Knowledgeの事務長を勤めたドイツ人ハインリヒ・オルデンブルク(Heinrich Oldenburg)は、1660年代、日本で長年過ごしたある匿名の人物に日本についての質問状を送り、フランス語で回答を得ている。1669年7月、協会の機関誌「Philosophical Transactions」に英語で発表されたこの問答[10]には日本人の健康と医学について触れている箇所も含まれている。そこでは以下のような指摘が興味深い:

「日本人はヨモギの粉をある木綿の上に散らし、それを体のある神経の上に置いて火を付けるような焼き付け方をする。」[11]

上記の例が示すように、灸術についての情報はニーダムなどの著者が推測したよりも遙か以前からヨーロッパへ伝わっていた。東アジアにいたヨーロッパ人はこの療法についてさまざまな観察を行ってていたこともわかる。しかしながら彼らが残した記述はたいてい短く、多種多様な分野に散らばっていたので、それらの情報に対する反応はなかったようである。お灸を本格的に紹介した歴史的名誉は、オランダ人のヘルマン・ブショフに与えられる。

 

 

 ヘルマン・ブショフの生涯

ブショフの生涯については断片的な資料しか残っていない。父ベルンハルト(Bernard)は牧師で1612年からオーイエン(Ooien)で任に就き、1617年にはズーレン(Zoelen)、1618年にはユトレヒトに移り、1639年12月に没している。彼は詩人として小冊子『新しい賛美歌及び宗教歌』(Nieuwe lof-sangen en geestelyke liedekens)を遺している。[12]『東インドの牧師名辞典』によれば、息子ヘルマンは1620年にユトレヒトで生まれたとされるが、[13] ユトレヒト大学の学生名簿に彼の名はようやく1650年になってから現れる。[14]ライデン大学でも学業を続けたことになっているが、その名簿には名前が見当たらない。いずれにせよ、ヘルマンは1642年にはズーレンで聖職志願者(Proponent)に任命された。今日でも改革派教会の壁飾りに彼の名前を見ることができる。1653年、同じヘルデルラントのクレムボルフ(Culemborg)に転任になり、ブショフの人生に転機が訪れる。異教徒を救おうという思いに駆られたのか、旅愁、それとも逃避であったのか、いずれにしても、彼がなぜ東方に赴いたのか不明である。

ブショフは1654年10月5日、アムステルダムでVOC(オランダ東インド会社)の牧師として応募した。彼は改革派教会のアムステルダム支部の委任で、フェニックス号に船室を与えられ、1654年12月10日にテクセルを出港した。[15] バタビアへの航海は長く、危険を伴っていたため、会社は1651年4月から喜望峰に基地を置いていた。フェニックス号はここに1655年4月3日、錨を下ろし、水と食料を補給し、病人に少しの休養を与え、船を修理した。偶然、3日後には指揮官ファン・リーベーク(van Riebeek)がここに基地を置いた3周年を祝い、ブショフはその記念の礼拝を執り行う名誉に与った。[16] その月の14日、フェニックス号は船団の他の船よりも1日早く出航し、ブショフは約2ヶ月後の1655年6月19日にようやくバタビアに着いた。[17]

 

図1 Zeelandiaの周辺[18]

 

同年の7月14日、ブショフはタイオワンへ送られた。[19] 会社は272の村に住むやく5万人の原住民を支配下に置いており、特に西海岸と南海岸にある部族に、キリスト教の教えと読み書きをオランダ人教師によって教えさせていた。この「文明化政策」は順調にすすめられたが、タイオワンの熱帯気候では兵士や教師はばたばたと病死してしまった。[20]

前年から4人の聖職者の派遣を要請したタイオワンの総督コルネリス・セサル(Cornelis Caesar)は[21] 1655年11月19日に彼らの到着を確認している。ブショフはスーラン(Soulang)、バクロアン(Bakloan)と、総督府の北にあるテフォラン(Tevorang)地方を担当することになった。[22] 1648年と1650年の間、タイオワンに測量士として駐留していたドイツ人カスパル・シュマルカウルデン(Caspar Schmalkalden)は、牧師たちが交代でゼーランディアの礼拝を行い、毎月担当の村に赴き、学校を視察し、老人を問いただし、新生児に洗礼を授けなければならなかった、と旅行記の中で書いている。[23] ブショフの教区についてモンタヌスは否定的な言葉しか見出していない。スーランの村には「乞食のような、みすぼらしい、役立たずの、いわば人殺しのような人間」が住んでいる。彼らの土地は豊かだが、生活に必要なだけしか耕作しない。時には怠惰なために損をすることもある。[24]シュマルカウルデンも同調している。[25] ブショフは、プロテスタントの労働倫理には見向きもしないこの人々への布教には大いに関心を持っていた。1656年8月14日の報告書で、原住民は、彼らには理解できないシンカン方言(Sinkang)で授業を受けており、そのためキリスト教についてはあまり知られていない、と嘆いている。[26] おそらく彼はバタビアとゼランディアの間でやりとりをしながら適当な授業用の言語、学校での授業内容、またオランダ人による系統的な現地語の学習などに関して重要な役割を演じていたと思われる。[27]

タイオワンは船から見ればエデンの園のように見えたが、ヨーロッパ人には犠牲を強いていた。南方の村には「毒気が漂い」、そこへ行けば「自分でもその臭いを感じる」ことができる、とシュマルカウルデンは熱帯のかび臭い瘴気を思い起こしている。「オランダ人は」、「確かに何日かは熱っぽい皮膚病に耐えなければならない」。めったにないことだが、それを生き延びた者は「持ちこたえられる」。[28] 彼の前任者に襲いかかった病苦からブショフも逃れることはできなかった。到着したときには健康体だったが、[29] すぐに受難の道を歩むことになる。1657年1月31日の書簡によれば、彼は、南海岸の学校を訪問して回ったが、12日後には重病人になって帰ってきた。[30] 翌年の1月14日に、「牧師の疾患と急死」について嘆いていたバタビアの教会役員会は、ブショフについても触れている。[31] 彼は、忠実な仕事と確かな経験で教会に仕えたいと、冷地オランダの高官に説明していたが、残念ながら、この地域の風土と気温は彼の身体には合わなかった。彼はほとんどいつも病気で、たいていは非常に重く、そのため転任を要請せざるを得なくなった。[32] 5月21日に結局彼は交代することになり、牧師のウイレム・フィンデルス(Willem Vinderus)が任に就いた。果たして彼の後任者は7月11日にはもう死んでしまった。[33] タイオワン総督と議会の1657年11月19日の書簡は、ブショフがまもなくヘラクレス号で旅立つことを告げている。[34] 12月27日にバタビアへ着いたときには病状はいくらか良くなっていた。[35]

湿地帯にオランダ式の運河と水路で作ったバタビアは、タイオワンよりも健康的だったとは言いがたい。ここでも欠員が出るまでに長くはかからなかった。牧師のサムエル・テシェマケル(Samuel Tesschemaker)が死んだ後、[36] ブショフは後任として1658年1月24日、バタビアの5人のオランダ人牧師に加わった。[37] 彼は自分の死を予期していたらしく、1669年12月23日に公証人ホイスマンス(Huysmans)の前で最初の遺言を書いている。1660年1月15日の文献によれば、彼はバタビア教会役員会の聖職者としてトップの地位に就き、[38] 同年の10月には給与は130ギルダーに上がっている。[39]

お灸を讃える原稿をまとめたブショフは1674年1月30日に会社の取締役への献詞を書き終え、[40] 息子ヘルマンにアムステルダムへ行くよう頼んだが、まもなくブショフの病状は悪化した。1674年3月12日に、牧師ザス(Zas)が「病弱な」ブショフの任を勤めることに決まったことが、その病の深刻さを物語っている。[41] さらに、5月16日付けで夫人と共同の遺言も作成される。[42] 7月19日付けの『バタビア城日誌』には、彼が長患いの末に亡くなったと記されている。翌日、新教会で手厚く葬られた。[43]

東インド会社は、ブショフの本を出版する気はなかったらしく、アムステルダムにいる弟のヨハンが動いてヤコブス社(Jacobus de Jonge)から刊行することになる。[44]この弟の名前は1643年に初めてユトレヒト大学の学籍簿に現れ、1649年3月15日に学位論文を提出している。[45] 後に彼はユトレヒトで弁護士、またラテン語学校の副校長になっている。[46] ヨハン・ブショフはバタビアから運んだもぐさや、火を付けるために必要とされた線香も商っていた。

 


図2 ブショフによる著書の表題紙

 

 

 ブショフが体験した「もぐさ」

祖父と同様にヘルマン・ブショフは長い間足部痛風に苦しんでいた。1650年代末頃に痛みが激しくなり、バタビア在住のなじみのヨーロッパ人医師があまり頼りにならなかったので、彼は、普段一家の奴隷たちの世話をする女医(“Doctoresse”)を呼ぶことにした。[47] 彼女は今日のベトナムのフエ市付近にあったの小国「広南」(Quinam)出身であり、かつてブショフの娘のある種の喘息を治したことでブショフの信頼を得たと考えられる。その女医は「もぐさでの焼き付け」を提案したが、患者はこの「焼き付け」と最悪の想像を結びつけてそれを拒否することにした。しかししばらくすると、痛みに耐えられなくなり、その女医は再びブショフに呼ばれた。彼女は、「非常に注意深く足の患部を探った後で」、彼の脚と膝に半時間の間にもぐさの小塊を約20個置いた。[48] 効果は彼の期待をはるかに上回った。すでに治療の最中に、それまでは一晩も休めなかったブショフが気持ちよく眠り込んでしまい、24時間後に目覚めたとき、膝と脚はまだ腫れていたが、発作は治まり、何日もしないうちに仕事に戻ることができた。

西洋の定義と一致するような痛風という概念は、元々東洋医学には存在していなかった。あいまいに記された灸点から判断すると、女医はおそらく今日ではBeriberi(脚気)だと診断したのだろう。しかし、中国の文献では、これは女性の場合「空の肝臓」から、男性の場合は腎臓や風、寒、熱、湿から起こる病気で、それぞれの病因によってさまざまな症状が現れるとされている:筋肉と腱がけいれんを起こす(寒)、腫れる(湿)、四肢の動きが鈍くなる(熱)、関節がふくれ、隙間が小さくなる(風)。[49] ブショフの例からわかるように、その病が互いに異質の理論体系の中でさまざまに定義され、診断されても治療は不思議に成功したのである。

 

 

 ブショフの著作

この劇的な治癒はブショフの頭から離れなくなった。何年もの間、彼はもぐさの感動的な効用についてその原因を探ろうとした。[50] 最後にはこの研究の成果を小冊子にまとめた(『痛風の詳細な解明およびその確実な治療薬』):

Het Podagra, nader als oyt nagevorst en uytgevonden, midsgaders des selfs sekere Genesingh of ontlastend Hulp-Mittel. Door Hermanus Busschof de Oude van Utrecht, Predikant op Batavia in Oost-Indien. 't Amsterdam, By Jacobus de Jonge, Boeckdrucker, aen de Weesper Kolck, achter 't Koren-Meters Huys, in de Toelast, 1675.

フォイヒト(Gerhart Feucht)はさらに1674、1677、1678年版に触れているが、それを裏付ける証拠はまだ見つかっていない。容易に入手できるのはロンドンのモーゼス・ピット(Moses Pitt)が発行している英語版である:

Two Treatises, The one, Medical, Of the Gout, And its Nature more narrowly search'd into than hitherto, together with a new way or discharging the same. By Herman Busschof Senior, of Utrecht, residing at Batavia in the East-Indies, in the service of the Dutch East-Indian Company [...] London: Printed by H.C. [...] 1676.

翌年にはドイツ語版も出版されたが、現存しているのはおそらくポーランドのヴロツラッフ大学の蔵書だけだろう:[51]

Das genau untersuchte und auserfundene Podagra, Vermittelst selbst sicher=eigenen Genäsung und erlösenden Hülff=Mittels / Durch Herrmann Busschoof den älteren von Utrecht / zu Neu=Batavien in Ost=Indien wohnhafft / Niederländisch beschrieben / und anietzo ins Deutsche übersetzet von einem aus dem Collegio Naturae Curiosorum. In Verlegung Esaiae Fellgibels / Buchhändlers in Breßlau. Im Jahr 1677.

1696年の第2版はテオフィルス・ゲオルギ(Theophilus Georgi)の『図書事典』に記載されているが、ここには1677年の版は見当たらない。[52]1678年にフランクフルトで出版されたというラテン語版の「Hermanni Busschofii Podagra proprius quam ante hâc investigata & inventa」も同様である。

上記の版が全て確認できたわけではないが、ここから若干の結論を引き出すことはできる。ブショフの本は医師よりも一般の読者を対象にしていたが、その狙いは成功したようだ。読者にとって、それは単なる実用書の類であり、そのため売れ行きもよかった。

しかしよく売れたのは本だけではなかった。『痛風の詳細な解明およびその確実な治療薬』の最後でブショフの弟が、この妙薬の入手先を紹介している。ブショフはもぐさの原料を明らかにしなかったため、東インド会社の「焼き綿」は当分の間ヨーロッパで最高値をつけた。それは1683年頃その実態が明らかになった後も続いたようである。ドイツの外科医プアマン(M. Gottfried Purmann)によれば、「もぐさで奇跡じみたこと」を起こし始めた頃、彼はアムステルダムで1ロートにつき12ライヒスターレルもの大金を払った。腰痛や四肢痛の患者を何人か治療した後にはもぐさがなくなってしまい、半ターレルで「外科医たちからほんの少しだけ」手持ち分を買い取らなければならなかった。その後、それは以前ほどは使われなくなったと指摘している。[53]1737年の同胞ヨーハン・クリティアン・クントマン(Johann Christian Kundmann)によれば、火付けとして勧められていたアジアの線香は、アムステルダムではおよそ30年前には、「禁輸品だったため龍涎香の螌燭という名目で」1ロートにつき3ギルダーだったが、もぐさはそれよりさらに高価だった。[54] VOCの業務用書類には一般的な総称で「医薬品」とだけ記されているが、東南アジアや、あるいは日本からももぐさが数年にわたってヨーロッパへ輸出されていたことは間違いない。

 

 

 『痛風の詳細な解明およびその確実な治療薬』の内容

ブショフはまず、「痛風の実態」について説明を試みている。牧師にふさわしく彼はテオフィルス("Theophilus, een liefhebber der waerheydt")とテオディダクトゥス("Theodidactus, een leeraer off Doctor in de Heylige Schrift")との対話形式によって、Podagra論及びもぐさ論を立ていく。ブショフの考えによると、Podagraは不自然で内的で、骨膜の奥深く潜んだ小さな腫れで、それを引き起こすのは「乾いて冷たく、悪性の蒸気」("een drooge en koude quaedt-aerdige damp")である。この蒸気は「動脈から、心臓の排出力により、骨と骨膜の間を通って追い出さ」れる。これは関節の回りに起こり、例の蒸気がそこに閉じ込められ、それが非常に敏感な骨膜を広げて張りつめ、そのため激痛が走り、当該の四肢が動かせなくなる。[55]Podagraの腫れ("geswel")は元々内的なもので、たいていは見えない。[56] 外から見える瘤は症状の一種に過ぎない。[57] この点では権威の多くが無力になり、病因学上の混乱をひき起こしただろうとブショフは判断している。[58]

この堂々たる主張で専門家の厳しい目にさらされるだろうことは、そもそも医学には素人の彼にはわかっていた。[59] しかし彼はゼネルト(Daniel Sennert)、ファン・ベーフェルヴェイク(Jan van Beverwijck)、ヒポクラテス(Hippokrates)、ガーレン(Galen)、フォン・ヒルデン(Fabricius von Hilden)、ショリアク(Guy de Chauliac)、バルベット(Paul Barbette)、パレ(Ambroise Paré)など15人以上の、古代ギリシアの「旧学派」のみならず近代医学を唱える「新学派」の代表的な著書にも精通していた。[60] 彼の「蒸気論」に強い根拠を与えたのは特にゼネルト、ガイネリウス(Guainerius)とマテウス・デ・グラディブス(Matthaeus de Gradibus)だったが、パレについてもいくらか解釈し直している。彼がかなり多くを引用した医学書はバタビア市内の病院か、要塞の医局(medicinale winkel)にあったものと思われる。牧師としてブショフは困窮者を励ますため、その枕元に繰り返し呼ばれた。日曜日に教会に行った後も教区民と話す機会があった。また、故郷から遠く離れたバタビアでは、数少ない知識人同志の交流は緊密なものだっただろうし、ブショフの医学研究も医師たちと相談・議論しながら発展していったに違いない。

興味深いことに、彼の後ろ盾になったのはヨーロッパ医学の権威だけでなく、彼が知り得た限りでは中国人の「医師たち("Chinese Doctoren")も全て同一意見だった」。[61] 本の別の所で彼は、蒸気がPodagraの病因だと初めて仮定したのは、灸(の効き目)を検討した時だった、と説明していている。[62] そのため、東洋医学からも重要な刺激を受けることになる。

ブショフの「蒸気」(“damp”)は「気」を西洋風に模したものである。中国や日本の古典ではこの気は身体の内外に存在し、極めて細かい物質で、まるでギリシアのプノイマ(pneuma)のようなものであるとしている。気は全ての動きの中に存在し、組織を守り、さまざまな変化を制御し、全てが定位置で機能するように配慮する。病気になるのは、大小宇宙の調和が妨げられたり、壊されたりした結果であり、つまり局地的または全体的な気の不足、過多、または逆行がその原因となる。そのため、上下や内外への循環が、経絡の中で保たれることが重要である。[63]

確かにブショフはバタビアの中国人からこのような説明を受けていた。言語上の問題以外にも、この病理学を理解するには多くの障害があった。結局、ブショフは至る所で東洋医学から得たヒントを西洋医学にあわせながら、その「蒸気」を「乾、寒」と特徴付け、「悪性の腐敗」と混同している。[64] それは「弱い暖気」により「腐った水分や血から、たいていは体内の器官」である胃、肝臓、脾臓「や頭部内でも」発生し、そこから血管を通って心臓へ運ばれる。心臓はこれを取り除こうと、動脈を通してできるだけ遠くの四肢へ追いやる。[65] そこでその蒸気は骨膜と骨の間に入り込み、激痛が生じる。[66]

ブショフの印象では、治療の目的は「患部に閉じ込められた蒸気を取り除き、排出させる」ことだった。[67] もぐさは動脈の上に置くのが最良で、「痛みがひどく、悪性物質がまだ残っていて血液中に分かれて潜んでいることを確認しておく」。それからもぐさが「悪性の物質または蒸気」を引き出すことになる。[68] ここでも東洋医学の跡を見ることができる。しかしながら治療するのは血管の上ではなく、経絡の上であり、その指定された点で気をそらしたり移したりする。

灸を用いた療法の実践についてブショフは第2部で詳細に述べている。これまでヨーロッパの医師たちは知識のなさから、さまざまな症状「(発作)を緩和して」きただけで、完治には至っていない。しかし、無害で確実なもぐさの焼き付けにより、これは過去の問題になり、今後は「奥に巣くっている敵を引っ張り」出せるようになった。その敵Podagraはまず立ち止まり、それから次第に静まり、ついに消え失せてしまう。[69]

日本人や中国人にはよく知られ、賞賛を惜しまれないもぐさは、たいていの病気に効く。[70] ウール状で柔らかく、地上で最も尊いある草から作られるが、その名はわからない。残念ながら中国人も日本人もその材料や作り方は秘密にしている。中国が薬用の草や根において隣り合った国々を凌ぐように、もぐさの製造でも抜きん出ている。彼らはもぐさを即効性の焼灼剤として四肢のあらゆる疾患に用いている。[71]

治療に際しては、指で極く小さな「綿の小球や小塊」に丸め、豆粒大で、上を尖らせ、下は広くして、指定された箇所に置く。白檀から作った「香りの棒」(=線香)で火を付ける。これも毎年もぐさと一緒にアムステルダムの東インド会社で注文できる。[72] その香りはもぐさによって引き出された、臭くて悪性の痛風蒸気を完全に防いでくれる。[73] 中国人はもぐさを火付けにも用いる。火付きがよく、燃え尽きると皮膚上に小さな灰色の跡が残る。治療を重ねても痛みに耐えられるのは、「素材がウール状で透明、堅くも厚くもない」からである。また、粒("popjens")も小さい。きゃしゃな手足には3回、がっしりしている手足には、必要な場合25回までこれを繰り返す。[74]

後治療も東洋医学の伝統に従っている。ここで少しつぶしたニンニクを乗せ、唾液で湿らせたニンニク片を蓋にして、その上に香りの良い散剤かバジリコの葉を置く。24時間後に「かさぶたが剥げかけているかどうか」を見る。水疱はハサミで切り開くが、かさぶたは自然に剥がれるまでそのままにしておく。これは暖めたオオバコの葉か、必要ならキャベツの葉で速めることもできる。[75] このようにニンニクで少し化膿させる方法が、ヨーロッパの医師たちにとって非常にわかりやすかったのは、西洋でも中世から、いわゆるFontanella〔泉門〕による化膿を誘発する同様の療法が行われていたからである。

療法士にブショフが要求したのは「十分な知識」だけではなく、もぐさを誤った場所に置かない鋭い目と器用で確実な手だった。[76] 患部(locus dolendi)を見つけるには、「その正確な位置に至るまでその回りを」指で探らなければならない。

しかしブショフはヒポクラテスの原則である「患部を焼け」[77] を知っており、その下に血管や腱があってもどこにでも焼き付けができるというとんでもない結論に達してしまう。Podagraの病因となる蒸気は動脈を通るので、その焼き付けは効果的でさえある。しかし不注意からあまりに長く深く焼かないようにしなければならない。さもないとかさぶたが剥がれず、排出物が体内に留まり、深く食い込んで遂には不治の悪性潰瘍になり、麻痺してしまう。[78]

さまざまな腫れ物、出来物、その性質および療法について詳細に述べた後、ブショフは最後の章で歯痛の療法について書いている。歯痛は17世紀には歯の痛風(Podagra dentis)だとされることがあった。ここでもブショフによればもぐさは、専門書で勧められている瀉血などを凌いでいた。灸を据える場所として彼はまたしても「静脈と動脈」及び歯痛の際には最も強く脈打っている耳の近くを勧めている。粒は小さめで、1度に3回以上同じ場所に用いてはならない。この部分は実際に中国の灸点では「浮白」(GB10)、「完骨」(GB12)や「翳風」(TE17)となっており、特に歯痛の際に効くとされている。しかし血管の上に置くのではなく、「足少陽膽経」や「手少陽三焦経」の上となっている。

ブショフは観察だけで満足してはいなかった。苦しむ上級外科医フランソワ・ド・レ(François de Rays)に彼は右手の包皮の上の硬性癌を焼くように勧めた。[79] バタビアの鋳物工でブレスラウ出身のマルティン・シュミット(Martin Schmidt)は足部痛風に苦しんでいた。ブショフが自分で硬いこぶの上にもぐさを置くと、患者はすぐによくなり、工場へ戻って行った。目撃者である医師のトーマス・フロリ(Thomas Flory)と上級外科医ウエルネル・ラウレンティウス(Werner Laurentius)は驚いてそれを見ていた。[80]

論文の補遺には具体例をさらに3件見ることができる:

バタビアの著名な外科医の息子が膝の腫れに苦しんでいたが、3度の焼き付けで完治した。同時にそれまで苦しんでいたてんかんも消えてしまった。 女奴隷が水死体を見て精神錯乱に陥った。ブショフの女医は彼女を固定し、髪の毛を上にまとめ、もぐさ玉をその生え際で環を作るように置いた。彼女はすぐに眠り込み、夕方に目覚めたときは元に戻っていた。[81] ブショフの家にいたもう一人の女奴隷は、さまざまな治療を行っても無駄に終わっていた極度の眠気をもぐさで治した。

 

図3 足部痛風と精神錯乱をもぐさで治療している様子を、ブショフの記述をもとに示した想像図(Valentini, 1704より)[82]

 

ブショフの名は18世紀初めにはすでに忘れられていたが、彼の書が及ぼした影響は注目に価するものだった。彼が用いたMoxa(もぐさ)という語はほとんど全てのヨーロッパ語に根付いた。さらに、後になってテン・ライネ(Willem ten Rhyne)、ケンペル(Engelbert Kaempfer)、ツュンベリー(Carl Peter Thunberg)のような医師たちが日本での経験をもとに他の療法についても発表しているが、灸術は19世紀に至るまで足部痛風の主な療法であり続けたのである。

 

 

脚注

[1]    Karl E. G. Ritter von Reichert: Ein Beitrag zur Geschichte der Moxa. Deutsches Archiv für die Geschichte der Medizin und medizinische Geographie (1879), Vol. 2, p.45 - 50.
Gerhart Feucht: Die Moxabehandlung in Europa. Haug, Heidelberg 1977. p. 3f.;
Lu Gwei-Djen and Joseph Needham: Celestial Lancets. A History and Rationale of Acupuncture and Moxa. Cambridge 1980, p. 292.

古賀十二郎『長崎洋学史』下巻、長崎文献社、1973年(昭和48年)、190、195頁。
魯桂珍、J.ニーダム『中国のランセット - 針灸の歴史と理論』橋本敬造・宮下三郎訳、創元社、1989年、271-74頁。
[2]    Cartas qve os Padres e Irmãos da Companhia de Jesus escreuerão dos Reynos de Iapão & China [...]. Em Euora por Manoel de Lyra. 1598. P. II, lib. 1, f. 123v.
[3]    Georg Schurhammer / E. A. Voretzsch: Luis Frois: Die Geschichte Japans (1549-1578). Nach der Ajudabibliothek in Lissabon, übersetzt und kommentiert. Leipzig 1927, p. 9.
松田毅一・川崎桃太訳『日本史1 豊臣秀吉篇I』中央公論社、1977年、81-82頁。
[4]    Luis Frois: Kulturgegensätze Europa - Japan (1585). Ed. Josef Franz Schütte. Tokyo 1955. Kap. 9, No. 2.
ルイス・フロイス『日欧文化比較』岡田章雄訳注、(大航海時代叢書 XI)岩波書店、1965年、587頁、改題『ヨーロッパ文化と日本文化』岩波文庫、1991年、131頁。
[5]    Juan de Legísima (Ed.): P. Marcello De Ribadeneira / Franciscano / Historia De Las / Islas Del Archipiélago / Filipino Y Reinos De La / Gran China, [...] Y Japón. Madrid 1947. p. 324f.
[6]    Vocabulario da Lingoa de Iapam. Nangasaqui 1603. Supplemento 1604. (復刻版)。勉誠社、1973年。土井忠生・森田武・長南実編訳『日葡辞書』岩波書店、1980年。
[7]    Vocabulario, 164v: Mogusa. Erua com que se dão botões de fogo.
[8]    Vocabulario, 323v, 112r, 201r, 316v, 338r.
[9]    Diary kept by the head of the English Factory in Japan. Diary of Richard Cocks, 1615-1622. Edited by The Historiographical Institute, The University of Tokyo. Vol. II, Tokyo 1979. p. 81. 東京大学史料編纂所『日本関係海外史料 イギリス商館長日記』訳文編の上、東京大学出版会、1979年、752頁。
[10]    1672年にはドイツ語訳も発表された: Wahrhaftige Beschreibungen dreyer mächtigen Königreiche Japan, Siam und Corea. [...] mit neuen Anmerkungen / und schönen Kupferblättern / von Christoph Arnold [...] Nürnberg [...] Michael und Joh. Friedrich Endters. Im Jahre M.D.C.LXXII, p. 358ff.
[11]    Philosophical Transactions, Vol. IV (London, July 1669), p. 984.
[12]    A. J. van der Aa: Biographisch Woordenboek der Nederlanden. Haarlem 1852 - 1878, II, 3, p.1649; P. C. Molhuysen, P. J. Blok: Nieuw Nederlandsch Biografisch Woordenboek. Leiden 1911ff., VI, p. 241.
[13]    C.A.L. van Troostenburg de Bruijn: Biografisch woordenboek van Oost-Indische predikanten. Nijmegen, Milborn 1893.また、ユトレヒトの市公文書館に照会したところ、ヘルマン・ブショフの名は1612年以降の洗礼記録にはなく、そのためこれよりも以前に生まれたと思われる。
[14]    Album studiosorum Academiae Lugduno Bataviae 1575 - 1875. 's Gravenhage 1875. これはユトレヒト大学図書館 E. H. A. Rutgers氏の指摘による。
[15]    この渡航に関して全ての船名と資料は J. R. Bruijn, F. S. Gaastra, I. Schöffer et al.: Dutch-Asiatic Shipping in the 17th and 18th Centuries. Volume II, Outward-bound voyages from the Netherlands to Asia and the Cape (1595 - 1794). The Hague 1979, p. 118f.を参照。
[16]    Van Troostenburg de Bruijn: Biografisch woordenboek van Oost-Indische predikanten.
[17]    Van Troostenburg de Bruijn: Biografisch woordenboek van Oost-Indische predikanten. また François Valentijn: Oud en Nieuw Oost-Indiën, vervattende Een Naaukeurige en Uitvoerige Verhandelinge van Nederlands Mogentheijd. Joannes van Braam, Gerard onder de Linden, Dordrecht-Amsterdam 1724 - 26. Boek 5/6, Deel 4, 8. Stuk, p. 52.
[18]    J. L. Blussé, M.E. van Opstall, Ts'ao Yung-Ho, Chiang Shu-Sheng, W. Milde (Ed.): De Dagregisters van het Kasteel Zeelandia, Taiwan 1629 - 1662, Deel 1: 1629 - 1641. Nijhoff, 's-Gravenhage 1986, 付録より。
[19]    Valentijn, Boek 5/6, Deel 4, 8. Stuk, p. 52.
[20]    W. Ph. Coolhaas (ed.): Generale missiven van gouverneurs-generaal en raden aan heren XVII der Verenigde Oostindische Compagnie. Martinus Nijhoff, 's-Gravenhage, Deel II, 1964, p. 784f.
[21]    William Campbell: Formosa under the Dutch. Kegan Paul, London, 1903, p. 298f.
[22]    同上 , p. 299.
[23]    Die wundersamen Reisen des Caspar Schmalkalden nach West- und Ostindien 1642 - 1652. Nach einer bisher unveröffentlichten Handschrift bearbeitet und herausgegeben von Wolfgang Joost. Acta humaniora, Weinheim 1983, p.147.
[24]    Gedenkwaerdige Gesantschappen der Oost-Indische Maetschappy in't Vereenigde Nederland, aen de Kaisaren van Japan [...] Getrokken uit de Geschriften en Reiseaentekeninge der zelver Gesanten, door Arnoldus Montanus, t' Amsterdam, By Jacob Meurs [...] 1669, p. 36.
[25]    Schmalkalden, p. 144.
[26]    Campbell, p. 302 f.
[27]    Campbell, p. 302 f. また Pieter van Dam: Beschryvinge van de Oostindische Compagnie. Vierde boek, uitgegeven door C.W.Th. Baron van Boetzelaer van Asperen en Dubbeldam, Martinus Nijhof, 's-Gravenhage 1954, p. 164も参照。
[28]    Schmalkalden, p. 143f.
[29]    Campbell, p. 299.
[30]   Coolhaas, Deel 3, p. 119.
[31]   Van Dam, p. 171.
[32]   同上 p. 173.
[33]   Valentijn, Boek 5/6, Deel 4, 9. Stuk, p. 55. また Campbell, p. 83.
[34]   Campbell, p. 312
[35]   Van Dam, p. 173. また Valentijn, Boek 5/6, Deel 4, 9. Stuk, p. 55.
[36]    Van Trostenburg de Bruijn: Biografisch woordenboek van Oost-Indische predikanten. また Valentijn, Boek 5/6, Deel 4, 9. Stuk, p. 55.
[37]   Valentijn, Boek 5/6, Deel 4, 9. Stuk, p. 55.また Van Trostenburg de Bruijn: Biografisch woordenboek van Oost-Indische predikanten.
[38]   Van Dam, p.176. また Van Trostenburg de Bruijn: Biografisch woordenboek van Oost-Indische predikanten.
[39]   Van Trostenburg de Bruijn: Biografisch woordenboek van Oost-Indische predikanten.
[40]   Buschof (1675), Opdracht
[41]   Valentijn, Boek 5/6, Deel 4, 11. Stuk, p. 65.
[42]   Testament boek 1674, fol. 73ff. (Arsip National Republik Indonesia, Djakarta)。残念ながら今日ではかなり損傷してしまっているので、内容はほとんど解読できない。
[43]   Valentijn, Boek 5/6, Deel 4, 9. Stuk, p. 55.
[44]   八つ折り版、93ページ、序文、索引、説明を含む。
[45]   ユトレヒト大学図書館 E.H.A. Rutgersによる。
[46]   Buschof (1675), p. 97.
[47]   Briefe des Herrn von Wurmb und des Baron von Wollzogen auf ihren Reisen nach Afrika und Ostindien in den Jahren 1774 bis 1792. Ettinger, Gotha 1794, p.132.
[48]   Buschof (1675), Voor-Reden aen den Lezer.
[49]   例えば、本郷正豊著、小野文恵解説『鍼灸重寶記』医道の日本社、横須賀1959年, 181頁。
[50]   Buschof (1675), Voor-Reden aen den Lezer.
[51]   Wolfgang Michel (Ed.): Hermann Buschof: Das genau untersuchte und auserfundene Podagra, Vermittelst selbst sicher=eigenen Genäsung und erlösenden Hülff=Mittels. Haug Verlag, Heidelberg 1993.
[52]   Theophilus Georgi: Allgemeines Europäisches Bücher=Lexicon. Leipzig 1742, Teil I, p. 227. 当時の値段は1 1/2 Groschen。
[53]   Matthaei Gotof. Purmanni, Chirurgi und Stadt=Artztes zu Breßlau Herausgegebene Chirurgia Curiosa, [...] Franckfurt und Leipzig [...] 1699, p. 723.
[54]   Rariora Naturae & Artis item in Re Medica, oder Seltenheiten der Natur und Kunst des Kundmannischen Naturalien=Cabinets, wie auch in der Artzeney=Wissenschaft. [...] überlassen von D. Johann Christian Kundmann, [...] Breslau und Leipzig [...] 1737, 20. Artikel, Sp. 933.
[55]   Buschof (1675), p. 3.
[56]   Buschof (1675), p. 8ff.
[57]   Buschof (1675), p. 36ff.
[58]    Buschof (1675), p. 10 - 16.
[59]   Buschof (1675), p. 4.
[60]    Buschof (1675), p. 13.
[61]   Buschof (1675), p. 13.
[62]   Buschof (1675), p. 15.
[63]   石田秀実『中国医学思想史』東京大学出版会、1992年参照。
[64]   Buschof (1675), p. 16.
[65]   Buschof (1675), p. 24f.
[66]   Buschof (1675), p. 20.
[67]   Buschof (1675), p. 51.
[68]   Buschof (1675), p. 27f.
[69]   Buschof (1675), p. 50f.
[70]   Buschof (1675), p. 51.
[71]   Buschof (1675), p. 53f.
[72]   Buschof 1675), p. 53f.
[73]   Buschof 1675), p. 69f.
[74]   Buschof (1675), p. 55.
[75]   Buschof (1675), p. 57f.
[76]   Buschof (1675), p.71f., 68.
[77]   Buschof (1675), p. 71.
[78]   Buschof (1675), p. 76f.
[79]   Buschof (1675), p. 78.
[80]   Buschof (1675), p. 10.
[81]   ケンペルにも同様の記述が見られる:「隣接諸国の黒い民族は癲癇発作の場合や慢性症状の場合には、もぐさを中国人以上に用いるが、実際に痛みが軽くなるらしい。彼らは、全上頭部皮膚に幅の広い長いもぐさを置いて灸を立てるのだが、場合によって、すべての医者に見放された病気が、この方法で治ったと言われている。」エンゲルベルト・ケンペル著、今井正翻訳『日本誌『日本の歴史と紀行』霞ヶ関出版会社、1973年、下巻、491頁を参照。
[82]   Museum Museorum Oder Vollständige Schau=Bühne Aller Materialien und Specereÿen [...] von D. Michael Bernhard Valentini [...] Franckfurt am Mäin / In Verlegung Johann David Zunners. Im Jahr 1704, p. 229.

 

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