W. Michel / Y. Sugitatsu: Ôtaguro Gentan no Oranda-geka menkyojô to sono haikei nitsuite [The Surgical License of Ôtaguro Gentan and its Background]. Journal of the Japan Society of Medical History, Vol.49, No.3, 2003, pp. 455-477.
W・ミヒェル、杉立義一『日本医史学雑誌』 第49巻第3号(2003)、455〜477頁。

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W・ミヒェル、杉立義一

太田黒玄淡の阿蘭陀外科免許状とその背景について


要旨
カスパル流外科の誕生後、一六五〇年代から約三〇年間オランダ東インド会社の外科医が外科免許状を交付していた時期がある。このような免許状は蘭方医としての経歴上、有用なものとされていたようである。本稿ではその免許状交付に至る歴史的展開及び免許状の内容上の特徴を追究した上で、現存する五通のうち、これまでその背景が明らかにされていなかった一通の免許状の取得者太田黒玄淡の生涯を解明する。
キーワード  太田黒玄淡、外科免許状、紅毛流外科、西玄甫、嵐山甫安、原三信、瀬尾昌宅

 

 序

一七世紀後半に現れる出島蘭館医が日本人弟子に授与する外科免許状は、初期紅毛流外科の医学的・社会的受容を示す重要な史料である。本論文においては、その阿蘭陀外科免許の普及及び特徴を分析し、現存する五つの免許状の当時の受取人のうちに、その背景が不明であった太田黒玄淡の出生地及び生涯を追究することにする。

紅毛人の外科学と日本人との出会いは平戸オランダ商館の時代にまで遡る。東インド会社の船が平戸に停泊している間に外科医たちが上陸し、ときおり日本人の患者も診察していた。[1] 商館が長崎に移ってからは外科医が出島に常駐し、商館長の江戸参府にも同行する事になる。そのため日蘭医学交流の条件も向上し、商館医に対する日本側からの問い合わせや薬品の注文などが徐々に商館長日誌に見られるようになった。一六五〇年に特使フリジウス(Andries Frisius)と共に江戸へ赴いたカスパル・シャムベルゲル(Caspar Schamberger)は三〇年戦争で治療経験を積んだ外科医で、彼と、西洋のノウハウを積極的に取り入れようとしていた井上筑後守政重との出会いにより、外科学に対する関心は急速な高まりを見せる。異例の一〇ヶ月間にもわたるシャムベルゲルの江戸滞在中、紅毛流外科の基盤が築かれ、その後、薬品、書籍や器具類の注文が著しく増えている。出島商館長日誌には日本人による外科医への相談や往診依頼に関する記述が次第に多くなる。[2] シャムベルゲルが日本を離れてまもなく、その後任の外科医たちは長期間にわたって、西洋外科術を習得しようとする日本人の訪問を受けた。手順はいつも同じであった。まず長崎奉行が商館長に協力を求める。商館長はそれを了解し、通詞と入門志望者同席の上、外科医に指導を命じる。その最初の例は一六五二年の夏の日誌に見られる。

「本日、通詞全員と島の乙名が来て、奉行与兵衛より、我々の外科医が日本人に外科術指導をするよう依頼された。これは御奉行様特別のご厚意であり、喜んで承諾した。」[3]

幕府の高官が出島蘭館医に強い関心を寄せたことも、新しい医術の普及を促進したと思われる。一六五七年一月一四日に長崎奉行黒川与兵衛正直は、大目付井上の命令で儒医向井元升が何ヶ月もかけて出島で作成した報告書に署名するよう、ドイツ出身の商館長ツァハリアス・ワーゲナー(Zacharias Wagener)と外科医ハンス・ハンケ(Hans Hancke)に要請した。

「日曜日、昼食をすませるとしばらくして奉行のもとから、通詞全員と、これまで何度も触れた日本人医師が遣わされ、ヨーロッパ流の治療術に関する二冊の書物について語った。これらの書物は、この医師が大目付筑後殿の命を受け、我々の上外科医が誠実にまたよい文体で語ったものを、通詞の助けを得て翻訳したものだ。これから奉行の名においてこの書物を江戸へ持参し、大目付に渡す所存であるという。しかしまず外科医が署名し、さらには私自らも署名して、外科医が上述の医師にさまざまな著作を基に教授したことには全く間違いがなく、最高の知識をもって行われたものであることを保証しなければならなかった。私自身は異様でばかげた理由づけだと思い、断りたかったが、逆らう余地はほとんどなく、奉行の要求に従わざるを得なかった。」[4]

これはオランダ商館の外科医が、その教えがきちんと相手に伝わったことを保証した最初の例となっている。江戸へ持参した書物は同年の大火で焼失したと思われる。ワーゲナーとハンコの名を記した写本は九州大学附属図書館医学分館が所蔵している。[5]

 

 阿蘭陀外科免許状の交付とその内容

同じ時期に奉行の依頼で波多野玄洞に対する外科教育が始まった。商館日誌には、代官末次平蔵の叔父だと記されている。[6] 玄洞への教育は長期間に及んだ。ワーゲナーが一六五七年秋に日本を離れたとき、後任の商館長ブヘリオン(Joan Boucheljon)は、玄洞が「外科医の部屋へ自由に出入りできる」ようにするよう依頼された。ブヘリオンはこれを承諾し外科医には、望まれればいつでも指導するよう命じた。[7] 一六五八年七月の日誌には、玄洞はこの五、六ヶ月間、毎日指導を受けている、と書いてある。[8] 彼はまもなく江戸へ行くことになっており、オランダ語で、オランダ人外科医に指導を受けたことを証明して欲しい、と要請した。代官への敬意もあり、奉行もこの教育を承知していたので、ブヘリオンは外科医のデ・ラ・トンブ(Steven de la Tombe)に、この証明書を発行するよう命じた。[9] これがオランダ語による最初の免許状だが、残念ながら行方不明になっている。

これ以降二七年間にわたって免許状に関する記述が商館日誌に見られる。免許状がどのくらいの頻度で発行されたのかはわからない。数年にわたって何も記されていないこともあるが、これは単に商館長に関心がなかったためだという可能性も否定できない。それでも六〇年代終わりから七〇年代初めにかけて、医術の教育を受けるため多くの医師が長崎へ派遣されている。その中には一〇年もの養成期間を見込んで派遣されてきた、老中稲葉正則に仕えた医師の一二歳になる息子もいた。[10] 現在知られている免許状が、たいていこの時期に発行されているのも偶然ではない。最後の免許状が一六八五年に黒田藩の原三信に交付されているが、[11] それ以降は紅毛流外科が十分に確立され、このような外国人による証明書は不要になったようだ。

一部の商館長は出島における外科教育と弟子たちが受け取る免許についてあまり評価していない。一六七四年二月一六日にカンフフイス(Johannes Camphuijs)が酷評している。

「奉行は外科学の教育を受けさせるよう、またも医師を送ってきた。ロバに博士号を与えるため、外科医には大急ぎで仕事をさせる。通詞によると、この医師は筑後の殿様に仕える医師であり、先だって外科学の教育を終了し立派な免許を受け取った別の弟子と同じように、そのようなオランダ語の免許状を取得させるため、奉行が取り計らったということだ。」[12]

日本人が非常に急いでいた様子は他の商館日誌にもときおり見られる。商館長ハパルト(Gabriel Happart)は一六五四年につぎのように書いている。

「夕刻外科医が皇帝の医師長宗悦殿の屋敷に招かれて色々の病気とその治療法及び薬について尋ねられた後、丁重な酒食の饗しを受けた。この異教徒らは医師と少時の談話で予習も記録もせず、ヨーロッパの医術を学ぼうと考えるらしい。」[13]

このような疑問は根拠がないわけではない。例えばドイツ・ライプチヒ外科医組合規定 (一六二七年一一月二七日)での外科試験項目が示すように、ヨーロッパでは若い外科医は学ばなくてはならないことが多かった。[14] ライプチヒでは外科医の弟子の基礎教育は三年間かかっている。試験に合格した者は従弟期間修了証を交付してもらい修業の旅に出る。それでも数年後帰ってきた若い外科医たちの多くは親方(Meister)に昇進するための受験は許可されなかった。親方の息子でないと相当の実力がなければ、出世の機会は与えられなかった。[15] また、オランダ東インド会社の外科医採用試験の準備のためにヘルスが刊行した『外科学試験』(Examen der Chyrurgie)にも約二三五ページに及ぶ解剖学を始めとした、病気や治療方法に関する数々の項目が示され、一七世紀後半の外科医に対する要求の幅広さを物語っている。[16]


日本ではヨーロッパ人外科医と弟子との間に言葉の壁もあった。向井元升が五〇年代に大目付井上政重の命令で出島でさまざまな病気とその治療についての報告書を作成したときには、向井元升が商館を訪れる度に、阿蘭陀通詞全員が呼ばれたようだ。

我々はまたも、通詞全員で、筑後殿のために既述の医師元升に薬品の作り方を説明して忙しかったのである。[17]

数十年後来日した医師エンゲルベルト・ケンペル(Engelbert Kaempfer)も、通詞の語学力に失望した。彼は一六九〇年後半に、部屋小遣い今村源右衛門にオランダ語を「文法的に」に教えた結果で、源右衛門は「これまでの通詞では及ばないほど、オランダ語を書き、上手に話せるようになった」と自負している。[18]

出島での外科授業に費やした期間が短いという批判は当たっているだろう。しかし弟子たちが長期間オランダ商館にいたとしても、どれほどの知識が身についただろうか。例えば、ヨーロッパの外科医にとってすべての基礎だった体液病理学は日本人弟子にどういうふうに説明していたのか。また、東洋医学との接点のない意味不明の用語にあふれる説明を聞いた日本人はそれをどこまで理解できただろうか。[19] 一七世紀に広まった紅毛流外科の写本の中に、体液病理学に関しては、一つの短い概観しか見られないのも、決して偶然ではない。[20]

日本ではどのようなことが教えられていたのか。一六六五年に商館長フロイス(Jacob Gruijs)と商館長代理のニコラース・デ・ロイ(Nicolaas de Roij)、[21] 外科医ダニエル・ブッシュ(Daniel Busch)が署名し嵐山甫安に交付した免許状には貴重な手掛かりが残されている。この免許状は現存する最古のものだ。

「我ら下記の者共は、平戸侯の臣にして甫安と名乗る日本人が、久しい間オランダの外科医たちについて勉強し、(我らの知る如く)完全に外科の医術を教授せられたことを承認し、かつ証明する。これによつて彼はオランダ医薬の効能に精通し、それについて我らに充分の証拠を与えた。よって我らは彼を良外科医と宣言する。
於 日本、長崎商館       一六六五年一月二一日
  ヤーコブ・フロイス
  ニコラース・デ・ロイ
  出島の外科医ダニエル・ブシュ」[22]

オランダ語の文章には、出島の阿蘭陀通詞七名と出島乙名馬田九郎左衛門が署名した訳文が付されている。さらに指導の内容についての説明も興味深い。[23]

 /髟赤/大方
    諸
● 膏藥治方 製藥
  同剤功能治方
●ラフメントノ療方 製藥
  同機功能治方
●ホロカへシノハ器剤 製藥
  同方功能治方
●ハツハスノ療方 製藥
  同機功能治方
●シロヘフノ療方 製藥[24]
  同方功能治方
●煎油秘方製藥
  同方功能治方
●テリヤアカノ方 製藥[25]
  同剤功能治方
●メデリダアテノ方 製藥[26]
  同方功能治方
●レリエスニリライノ方 製藥
  同方功能治方
●コンヘキシアメキノ方[27] 製藥
  同方功能治方
●ヲツフヨムノ方 製藥[28]
  同方功能治方
●ヘレシヒタハノ方 製藥
  同方功能治方
●ソヒリマへトノ方  製藥[29]
  同剤功能治方
●ロフトウリウンノ方 製藥[30]
  同方功能治方
●アヽソワヒイテマテヨリノ煎方
●フランタビンノ煎方[31]
   器用
●テストレヘル[32] 図形
●藥草為水作療
  同方功能 治方
●テストルメント
  不可以器物
●アナトメヘヤ 傳授[33]
  木草原始
●ブヘクバンブル
  各傳授
  
●阿蘭陀式藥功能治方
  同諸藥製療方
  同藥種代理方
●望問瘡腫知可否事
  同症始用藥清療事
  同症内托療方事
  同症肺癰腸癰内托事
  同症真針傳授事
  同症經絡傳授事
●勘經絡放悪血秘傳事
●打關折傷連骨之事
●眼耳鼻歯咽喉治方事
●手足背筋縮引事
●癭瘤余肉血疾治方事
●金瘡療治用藥清療事
  同症明可否事
  同症血流連清療事
  同症血落圓胴堕事
  同症生悪宕内托事
●身骨鉄玉抜放事
●審國寶種述和名知事
  同土病名化倭詞事
●生類山海見季製藥事
●随季知草邑傳授事
    

主として次のような内容である。膏薬の製造法と効能、使用法。シロップの製造法。テリアクの処方。薬草の利用法。薬草からの薬油蒸留。オランダ製薬品の性質と利用法。腫物、打撲傷、骨折、負傷及び目や鼻、耳、歯、喉の治療法。瀉血。弾丸の取り出し方。オランダ語の専門用語の日本語訳。動植物の医学的利用法。解剖学。一見したところでは、ヨーロッパにおける外科医養成とはさほどの違いは見受けられないが、オランダ語による免許状の原文と阿蘭陀通詞が付けた和訳・解説文が一致していないのはなぜだろうか。商館医ブッシュは、甫庵はオランダ医薬の効能に精通しているとしか書いていないし、また、「我らの知る如く」という言い回しもブッシュのいくらか消極的な姿勢を示唆している。

現存の免許を比較すると、心から称賛されているのはたった一人しかいない。一六六八年に商館長ランスト(Constantin Ranst)、上外科医ディルクスゾーン(Arnout Dircksz.)と下位商人フリート(Daniel van Vliet)が大通詞西玄甫のために署名した免許状は異例の長さで、しかも彼のことを絶賛している。[34] この証明書の内容の要点は、大通詞西吉兵衛(玄甫)が、ポルトガルの判天連たち及びオランダ人たちの外科を十分に会得し、今日までドクトルとして認められ証明書を与えられた他のすべての日本医師たちよりも遥かに勝れておりヨーロッパ人外科医と同様な実力を有していることを確認して署名をし、且つオランダ東インド会社の印章を附すと云うものである。おそらく長期にわたり通詞として勤めたことも、このような賛辞に影響を与えたのだろうが、西玄甫はすでにシャムベルゲルと面識があり、一七世紀の五〇年代、六〇年代の歴代蘭館医とも交流があり、膨大な資料や、通詞たちが作成した報告書の写しなども入手していたに違いない。



図一  太田黒玄淡が受けた免許状(杉立義一蔵)

 

 太田黒玄淡の阿蘭陀外科免許状

今日、一七世紀のオランダ人が交付した免許状は僅かしか残っていない。それらを受けた嵐山甫安、西玄甫、瀬尾昌宅、原三信の、太田黒玄淡、うち、最初の四名がよく知られているが、太田黒玄淡とその背景についての情報はこれまで皆無だった。玄淡の免許状はすでに一九七六年、長崎での蘭学資料研究会第一八回大会で発表した。[35] 西医新学の欧文も、セピアのペン字が、日本術芸の伝授状に用いられる金泥下絵を以て装飾された純国風の料紙にかかれている。また当用の和 漢字文にざくされて、巻子に装され、和と洋、旧と新の混淆、日蘭交渉の遺物として興味ゆたかである。オランダ語の文章は嵐山甫安や原三信の免許状と同様に短い。

Dewijl Otangouro Siouan, sich eenige tijdt
in de Hollandse geneeskonst, heeft by mij ondergesz:
zich laten onderwijsen: nu, aangaande zyn voortgangh in
de genoemde konste, eenigh getuijgh-brief van mij versoeckende
verleene hem hetzelve aldus, dat hij geduerende de tijdt zijnes
aanwesens alhier, goede naarsticheijt in het begrijpen
van de voorgestelde lessen heeft gebruijckt. Quod attestor.
    Arnold Dirckz.

およそ次のような意味になる。太田黒修庵はある期間私のもとで和蘭医学を学んだ。そして上記の学問に上達したので彼は私に証明書を依頼した。そこで私は彼に対し証明書を与える。すなわち彼はここに滞在した期間中与えられた勉強をよく理解し、それらを会得したことを証明する。

他の免許状と同様ここにも阿蘭陀通詞による「解説文」が添えられているが、その内容は必ずしも正確ではない。ディルクゾーンは膏薬と薬油については一言も触れていないからである。文章はその年の初め、瀬尾昌宅に発行した免許状と驚くほど似ている。おそらくこのような免許状の標準型だったのだろう。日付は寛文八年九月になっている。九月一日は西暦では一〇月六日になる。

(イ 瀬尾昌宅の免許状)[36] (ロ 大田黒玄淡の免許状)

一、此瀬尾昌宅阿蘭陀外科一流

之膏藥油藥、其外秘審之藥方療

治之仕掛致相傳候。尤外科之執行

強元來内稽古在之故、一流之得

頼候。此以後何国仁而茂稽古之

通療治可之候。為其此一卷遣

。以上。

寛文未年丁未十二月六日

     阿蘭陀外科

       アルノヲトデレキセン判

右長崎 御奉行所様御意以御檢

使 仰付通事共立合出嶋

阿蘭陀外科一流不殘稽古相濟申

候。爲證據我ヒ判形仕候。 以上。

  未ノ十二月六日

  瀬尾昌宅老[37]

     名村八左衛門(黒印)

     西吉兵衛    (黒印)

     加福吉左衛門(黒印)

     本木庄太夫  (黒印)

     富永市郎兵衛(黒印)

     立石太兵衛  (黒印)

     楢林新右衛門(黒印)

此大田黒玄淡阿蘭陀

外科一流之膏藥並諸

油藥、其外療治仕掛迄

傳受候處明白実正也。

此以後何地仁而茂稽古

之通療治可之者也

其此一巻相認遣候。

以上。

     阿蘭陀外科

    安留能不登萸連起世舞

右長崎 御奉行所様

御意以御検使仰付

事共立合出嶋に而阿蘭陀

一流外科稽古無其紛候。

證據各判形仕候者也。

以上。

  寛文八

   九月吉祥日

     西吉兵衛(黒印)

        直能(花押)

    富永市郎兵衛(黒印)

        忠與(花押)

     本木庄太夫(黒印)

        榮久(花押)

  大田黒玄淡老

 

 太田黒玄淡の出生地及び生涯

玄淡が九州の出身である可能性は大きかった。福岡県での調査により、久留米地方で、太田黒家が存在したということが明らかになった。古賀幸雄が昭和五〇年に発表した『久留米藩旧家由緒』によれば、太田黒家は筑後国下妻郡中折地村に在った。現在の筑後市になる。四代目から性を溝上から太田黒へ改めたこの家は享保の頃から大庄屋を勤めていた。一七代目の太田黒小左衛門には玄淡という息子がいた。さらに玄淡は医師として阿波へ行ったという。これで出自は明らかになった。

「嘉永四亥年   旧家の物類書上  五月  
 中折地大庄屋
 太田黒孫左衛門
     〔中略〕
 十七代 太田黒小左衛門
 太田黒小左衛門秀信二男
 溝上玄淡
阿州家中え医術を以仕官仕候、其節系図書翰等持参仕候
ニ付、其後家筋相分兼候処、曾祖父太田黒孫七代、右玄
淡孫元琳且曾孫秀甫と申者より太田黒家系図差贈申候。」[38]

徳島に問い合わせたところ、徳島大学附属図書館に『阿波藩士の成立書并系図』という文書があり、これによると玄淡は溝上家の祖となっている。またこの文書からさまざまなことがわかる。

「成立 
   初代
   溝上玄淡秀親
筑後國久留米有馬玄蕃頭殿[39]家臣
太田黒小左衛門二男ニ而御座候、後氏溝上与
相改浪人之砌於江府久世大和守殿[40]
御立入仕、右之御手傳を以長崎罷越、
阿蘭陀流直傳免状取申、其後江府罷越、
徳音院様[41]御代御召抱被仰付弐拾人
御扶持方ニ御薬料銀五拾枚被下置、直ニ
御國許家族召連罷越候様被仰付
則御國許罷越候。右夫々年号
月日相分不申候。天和元辛酉年五月廿八日御結構之
御意之上、新知高弐百石被下置候。
元禄四辛未年三月十四日御地方被下置候。
同七甲戌年五月奉願醫術為修行
長崎[42]罷越候砌、銀子拝領被仰付御関船
下、同年七月十日出船仕罷越、彼地
逗留中より病氣ニ罷在、生国筑後江立寄
同年十月十三日病死仕候、跡式相續不願置候ニ付、近類共より右之趣長谷川主計[43]迄、有姿申上候。」[44]

玄淡は太田黒小左衛門の二男だった。ここに現れる有馬玄蕃頭頼利は承応四(一六五五)年から寛文八(一六六八)年まで久留米藩第三代藩主だった。玄淡は溝上と改名し、浪人となって江戸へ行き、久世大和守広行(關宿藩主)に仕えた。この老中の勧めで長崎へ行き、オランダの医学を学ぶ。それは一六六七年の終わり頃だと思われる。商館長シックス(Daniel Six)の日誌にそれを裏付ける記述が残っている。

久世大和様の日本人医師が通詞を伴って、我々の外科医に医療指導を受けに来た。老中様に敬意を表して承諾し、外科医には能力と熱意を尽くすよう命じた。[45]

この出島蘭館医はアルノウト・ディルクゾーンで、一六六六年夏から日本に来ていた。数週間後には西玄甫が先の免許状を手にしている。当時、ディルクゾーンから学んだのは玄淡だけではない。一六六七年の六月に商館長は老中稲葉と博多の殿様の医師及び末次平蔵の甥も外科学を修得するために出島に来た、と書いている。[46] 玄淡への外科教育は一六六八年一〇月に免許状の交付により終了した。この年、数多くの弟子を養成した恩師のディルクゾーンは持病のため一六六九年一月八日に亡くなり、稲佐山の墓地に埋葬された。[47]

「阿波藩士の成立書并系図」によれば、その後玄淡は江戸へ行き、蜂須賀阿波守綱通に「二〇人御扶持方」及び藥料銀五〇枚で召し抱えられることになった。綱通は寛文六(一六六六)年から延宝六(一六七八)年まで徳島藩の五代藩主だった。

いつの頃か玄淡は家族と共に阿波に移り住み、次第に高い信頼を得たようである。延宝六年七月に蜂須賀綱通が亡くなり、三年後には六代藩主綱矩が報酬を上げている。元禄四年には所領も得た。元禄七(一六九四)年五月に彼が銀子を拝領して殿様の関船で医術の研修のために長崎へ赴いたことも、彼の出世を色濃く裏付けている。しかし、まもなく玄淡は発病する。死を予感していたのか、彼は故郷筑後へ立ち寄っているが、同年一一月二九日(元禄七年一〇月一三日)にこの世を去る。玄淡は跡式相続に関して指示をしていなかったため、徳島藩の四代家老長谷川主計貞長が遺産を管理し、二ヶ月後に玄球秀春が父玄淡の跡を継いだ。玄淡の子孫は幕末まで代々医官として活躍し、溝上家の名を阿波の歴史に残した。

 

 

 結び

阿波の溝上医家の元祖である太田黒玄淡の出生地や免許状取得の背景などが解明されたことで、阿波における蘭学のルーツが一七世紀にまで遡ることになった。玄淡の免許状が日蘭交流史上はもとより、日本の紅毛流外科という観点からも、歴史的に意義深く重要なものであることがあらためて確認されたのである。

 

 

 

脚注
[1]   Dagregister Batavia,28.4.1637 (H. T. Colenbrander: Dagh-Register gehouden uit Casteel Batavia. 's-Gravehage 1896 ff.). NFJ 482, pp.459f. (NeijenroodeからJanszoonへの書簡、平戸、一六三一年四月二五日).
[2]   Michel, W.: Von Leipzig nach Japan - Der Chirurg und Handelsmann Caspar Schamberger (1623-1706). Iudicium, München, 1999, pp. 166ff.
[3]   “Op heeden soo quamen alle de tolken neffens den burgermeester des Eijlants uijt den naem vanden Gouverneur Joffijesamma [与兵衛様] een versoeck doen dat seker Japander door onsen chirurgijn in die conste wat mocht onder wesen werden. en groote courtoijse soude sijn E: daer aen geschieden, ende alsoo sulcx wel gaerne hadde geexcuseert, soo hebbe echter 't selve ingewillicht ende weijgerungh evenwel sijn voort ganck soude nemen, waer over sijn E: ons naderhant liet bedancken.” Nationaal Archief (NA), NFJ 65 (Dagregister Dejima, 1.11.1651-03.11.1652): 14.7.1652.
[4]   “Sondagh kort naar ons gehouden middaghs mael sont den Gouverneur alle onse tolcken met seker japanse doctoor (hier vooren meermaels geciteert bij mijn, en verthoonden twee boecken in houden: beijde de geneeskonste op de Europise-wijs, die hij door ordre van den Commissaris 't Sickingodonne [井上筑後守政重] van onsen opperchirurgijn redelijck wel scheen gevat ende met hulp onser tolcken overgeset te hebben, oversulcx begeerden uijt den naem van gem: Gouverneur dat deselve mede naar Jedo nemen en die aan voorn: Commissaris overleveren zoude, edoch mosten alvooren van voorsz: onse heelmeester onderteijckent, ende insgelijcx met mijn hant teijckeningh bevesticht worden, dat al wat hij d'voorsz: doctoor dienaangaende uijt diversche auteuren onderwesen en geleert hadde, alles, oprechtelijck en naar zijn beste kennis gedaen was, ende alhoewel ick zulcx voor mijn altoos een vreemde ende ongerijmde verclaringh achte, die dierhalven oock gaern afgebeden hadde, soo heefft e't echter weijnigh mogen helpen, maar de begeerte hierin des voorsz: Gouverneurs moeten voldoen.” NA, NFJ 70 (Dagregister Dejima, 2.11.1656-26.10.1657): 14.1.1657.
[5]   ヴォルフガング・ミヒェル「九州大学蔵の『阿蘭陀伝外科類方』(『阿蘭陀外科正伝』)と向井元升について」『比較社会文化研究科紀要』第二号、七五頁〜七九頁、一九九六年。
[6]   NA, NFJ 70 (Dagregister Dejima, 1.11.1656-2.10.1657): 6.11.1656.
[7]   NA, NFJ 71 (Dagregister Dejima, 26.10.1657-23.10.1658): 14.11.1657.
[8]   NA, NFJ 71 (Dagregister Dejima, 27.10.1657-23.10.1658): 24.4.1658, 27.4.1658, 17.6.1658.
[9]   NA, NFJ 71 (Dagregister Dejima, 27.10.1657-23.10.1658): 10.7.1658.
[10]   NA, NFJ 79 (Dagregister Dejima, 28.10.1665-18.10.1666): 6.5.1666.
[11]   “Ich ondergesz: Meester Albert Croon bekenne Fara Samcin discipel inde churighijs cunst geinstitueert te hebben soo veel mijn bekent, en hebbe zijt: seege hij Fara Samcin met nauwe opmerkingh wel begrepen. Octobr 18en Ao 1685 Albert Croon.” 原三信編『日本で初めて翻訳した解剖書』六代原三信蘭方医三百年記念奨学会、福岡平成七(一九九五)年、五〜六頁
[12]   “Den gouverneur sent ons weder een doctor om alhier in d' chirurgie onderwesen te worden, so dat onsen chirurgijn soo doend' wel haest do sijn werck sall krijgen, om esels te promoveeren sijnd' nae't seggen den tolcken, desen doctor med' een dienaer van d' heer van Sikingo, gelijcq d' andere, die onlangs met een groot promotie brieff van hier gescheijden sijnde, apparent desen mede gaend' gemaeckt heeft om insgelijcx sulcken schoonen geleerden hollantse brieff te bekomen.” NA, NFJ 87 (Dagregister Dejima 1673-1674): 16.2.1674.
[13]   Op den avont wiert onsen chirugijn ontboden ten huise van 's keijsers opper medecijn Zoyits-donno [宗悦] aldaer wegens veelderleij sieckten der selver genesingen, en toestel van medicamenten ondervraaeght, en voorts met spijs en dranck eerlijck getracteert 'tschijnt dese heijdenen noch altoos poogende van ons te leeren och lacen meijnen dat de Europase heel const soo inder haest mit een weinigh tsamen sprekens tusschen haer on een Chirurgijn, ende dat noch extempora en ongepramediteert voorvallende grondelijck te begrijpen sij. NA, NFJ 67 (Dagregister Dejima 1653-1654): 14.2.1654.
[14]   Stadtarchiv Leipzig, I. Sektion, Tit. LXIV 29, fol. 6b-10: “Vom Haupt / Von der Hirnschal / Von der Dura und Pia Mater / Von Halß und Brust / Von Bauch= undt Weit=Wunden / Von Achßell undt Hüfften / Von Arm und Bein / Von verrenckten und verstauchten Gliedern, / Von zerbrochen gliedern / Vonn Geschoßenen Gliedern. / Von Geschnittenen Gliedern. / Von verwundten glenckenn / Vonn offenen erzunten undt geschwollenen Schäden / Von Tödtlichen Wunden / Von Bluttstellung, wundt träncklein undt Pulver leschungen / Von Aderlaßen / Von Sÿmptomen und Zufallen / Von allerley gefehrlichen gebrechen und Schäden / Von Kraffts [,] Wirckung und Eigenschafft der Pflaster / Von Praeparierung undt Zurichtung der Pflaster / Von Auff= und Zurichtung der Werckstätte”
[15]   Michel, W.: Von Leipzig nach Japan, p. 14ff.
[16]   Examen der Chyrvrgie, By een vergadert Door Mr. Cornelis Herls zal: in syn leven Chyrurgyn der vermaerde Coopstadt Middelburgh in Zeelandt. Seer nut ende dienstelyck alle jonge Chyrurgyns ende insoderheyt die haer begeven na Oost ofte West-Indien. Den derden Druck, van veele fauten ghesuyvert. t' Amsterdam [...]1645. 人気の高いこの問答式試験マニュアルはドイツ語にも訳された (Examen Chirurgiae Oder der Wund-Artzney In Frag und Antwort zusammen getragen Durch M. Cornelium Herls. Nürnberg 1676).
[17]   “Zijn ander mael met uijtleggen wegen 't prepareren der medicijnen voor Sickingodonne met voorschreven doctoor ginsjo en al de tolcken besigh geweest.” NA, NFJ 69 (Dagregister Dejima 1655-1656): 27.5.1656.
[18]   Engelbert Kaempfer: Heutiges Japan. Herausgegeben von Wolfgang Michel und Barend J. Terwiel. Iudicium Verlag: München, 2001, Band 1, pp.6-7.
[19]   ヴォルフガング・ミヒェル「カスパル・シャムベルゲルとカスパル流外科(I)」『日本医史学雑誌』第四二巻第三号、一九九六年、五四〜五九頁。
[20]   『阿蘭陀外科指南』(元禄九年刊)及び「阿蘭陀外科書」(京都大学、富士川文庫)のような数々の写本に見られる「外科総論」である。
[21]   Wijnaendts van Resandt, Willem: De Gezaghebbers der Oost-Indische Compagnie op hare Buiten-Comptoiren in Azië. Amsterdam: Uitgeverij Liebaert, 1944., p. 264.
[22]   “Wij ondergeschreven getuijgen ende attesteren voor de waerheijt, dat den Japander genaemt Choan, dienaer van de Heer van Firando, eende geruijmen tijt bij de hollandse Chirurgijns heeft geleert, ende in de ars van de Chirurgie (voor soo veel ons bekent is) volkomen is onderwesen, so dat hij de kraghten van de hollandse medicamenten redelijk wel is bewust, daer van hij ons volkomen blijken heeft laten sien, ende dien volgende den selven voor een goet genees mr[=genees meester]verklaren.
   Japan ten Comptoire Nangasacki Desen 21e Januarij ao> 1668
   Jacob Gruys    Nicolaes De Roy   D. Busch Chirurgijn des Eilandt Decima” 平戸観光資料館所蔵。
[23]   同右
[24]   オランダ語 siroop(シロップ)
[25]   Theriaca
[26]   Mithridat, Mithridates
[27]   Confectio Hamech
[28]   Opium?
[29]   オランダ語 sublimaat
[30]   Ruptorium
[31]   オランダ語 brandewijn(焼酎)
[32]   オランダ語 destilleren(蒸留する)
[33]   Anatomia
[34]   “Constantin Ranst, geboortig van Amsterdam, opperhooft wegens de Vereenigde Nederlantse geoctroijeerde Oostindische Compagnie in 't Keiserrijcq van Japan. Salut doen to weten alsoo den oppertaelman Niis Kitsibeoye [西吉兵衛] lange jaren soo bij d' Hollanderen als Portugese padres het excerseren der chirurgie bijgewoont hem darinne doorgaens met goede opmerckinge g'evertueert heeft, soo dat den selven niet alleen rijckelijck behoorde te passeeren de kennisse van alle andere Japanse doctooren, nemaer g'achtet to werden voor een Eropeaens chirurgijn, daer bij geconsidereert desselfs opinie en genegensheijt desrakende. - hebbe wij den selven Kitzibeoye garene willen estimeren, houden ende promoverende voor den oppersten van alle Japanse doctoiren, die oijt en oijt immers soo veel t'onser kennisse rijckt, voor desen van d'Hollanderen in deser wijse tot doctoir gemaeckt ende verheven sijn geworden ende dat omme noch veele en b'sondere reedenen ter contemplatie streckende derhalve alle de Japanse op dese maniere gepromoveerde doctoiren den meergenoemden Kitzibeyoe daer voorn hebben te achten, erkennen aen te nemen ende doorgaens de preferance of voorsittinge in t'uijtten van sijn advijs to geven daert behoort.
   Aldus gegeven ende tot bekrachtinghe dese met onse gewoone hantteeken ende 's Compagnies chiap bekrachtigt, ten Comptoire Nangasacky dese 20en. februarij 1668.
   Constantin Ranst Daniel van Vliet Arnold Dircksz”.
この文書は出典不明ながら古賀十二郎の『西洋医術伝来史』形成社、昭和四七(一九七二)年、六九頁に載っており、西家の所蔵と思われる。
[35]   杉立義一「太田黒玄淡の和蘭医術免許状」蘭学資料研究会、第一八回大会抄録、長崎一九七六年八月一八日。
[36]   京都大学附属図書館所蔵
[37]   『通航一覧』では、「瀬尾昌琢」となっている。国書刊行会編『通航一覧』東京、国書刊行会、大正八(一九一九)年、巻二五〇、三二一頁。
[38]   古賀幸雄編『久留米藩旧家由緒書』久留米郷土研究会、昭和五一(一九七六)年、五一〜五二頁。
[39]   久留米藩第三代藩主、有馬玄蕃頭頼利。承応四(一六五五)年〜寛文八(一六六八)年まで務める。下中邦彦篇『日本人名大事典』東京、平凡社、昭和五四(一九七九)年、一五一頁。
[40]   下総国関宿城主、久世大和守広之。寛文二(一六六二)年二月二三日〜寛文三(一六六三)年八月一五日まで若年寄。寛文三(一六六三)年八月一五日〜延宝七(一六七九)年六月二五日まで老中を務める。この時は恐らく老中であろう。『国史大辞典・四』東京、吉川弘文館、昭和五七(一九八四)年、七九四頁。
[41]   徳島藩五代藩主、蜂須賀阿波守綱通。寛文六(一六六六)年〜延宝六(一六七八)年まで務める。同年七月晦日没。井上隆明編『江戸諸藩要覧』東京、東洋書院、昭和五七(一九八四)年、二六二〜二六三頁。
[42]   元禄七(一六九四)年の長崎奉行は、山岡景助、宮城和澄、近藤用高の三人。長崎代官は、延暦四(一六七六)年に末次平蔵茂朝が流罪に処せられて、以後若年寄が代官事務を代行処理することになった。
[43]   徳島藩四代家老。長谷川主計貞長承応三(一六五四)〜宝永五(一七〇八)年。寛文元(一六六一)年に家督を継ぐ。『徳島県百科事典』徳島、徳島新聞社、昭和五六(一九八一)年、八〇六頁。
[44]   「阿波藩士の成立書并系図」徳島大学附属図書館所蔵。
[45]   “Verschijnt neffens de Tolken, een Japanse Doctoor van den Rijcxraet Koesenojamattosa omme door onse Chirurgien in de heelconst onderwesen te werden, daer toe w'gaerne ten respecte van genoemde Rijcxraet voorn:e Chirurgien toe recommandeerden sijn vleijt en vermogen te doen.” NA, NFJ 81(Dagregister Dejima 1667-1668): 17., 18., 19., 20., 21.12.1667.
[46]   NA, NFJ 81(Dagregister Dejima 6.11.1667-25.10.1668): 22.-25.6.1668
[47]   NA, NFJ 82 (Dagregister Dejima 25.10.1668-14.10.1669): 7.-8. 1669, 9.1.1669

 

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