整理中 Wolfgang Michel: Willem Bijlevelt no suitobo [The Daily Expense-Journal of Willem Bijlevelt in Edo 1650]. In: Yogakushi Kenkyu - Western Studies, No. 10 (April 1993), pp.38 - 81. (in Japanese)
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Wolfgang Michel

Willem Bijlevelt の「金銭出納簿」


 鎖国後の17世紀、江戸に長期滞在が許された数少ないヨーロッパ人の一人はドイツ人でライプツィッヒ出身の出島蘭館医 Caspar Schamberger(1623ー1704年)である。[1] 1643年のブレスケンス号事件及び4年後のフィヤリヨ事件などによりオランダ東インド商会と幕府との著しく悪化した関係を好転させるため、バタビアのインド参事会は多大な費用をかけ、ぴえてr Blockhuijs(Petrus Blockhovius)が率いる使節団を日本へ派遣することにした。しかし特使一行のヤハト船Robijn号が1649年9月19日に長崎湾内に錨を降ろしたとき、病身に加えて長旅のせいで、高齢のブロックホビウスはすでに亡くなっており、副団長のAndries Frisiusがその代理を務めることになった。

 新任出島商館長Ant(h)onio van Brouckhorstと共に特使一行は同年11月25日に江戸へ旅立つ。[2]当時、江戸参府への外科医の随行はまだ慣例とはなっていなかったが、オランダ側は、団員の健康管理のことを考えると同時に、日本側、とりわけ大目付井上筑後守政重が西洋医学に対して並々ならぬ関心を寄せていることを見逃さなかった。[3] また、長年に亘ってなされてきた度重なる幕府の要請をそもそも受け入れることには消極的であった商会も不承不承、4台の臼砲と砲手を送り、「日本の皇帝」の御前で臼砲発射の実演をすることになっていたのである。オランダ人24名、随行の日本人310名、馬128頭の大行列は12月31日江戸に到着した。しかし、家光(1604ー1651年)重病のため特使一行は、様々な手続きを無事に済ませながらも、参府の頂点とも言うべき謁見の儀は何度も延期され、こうした日本側の対応にその真意を測り兼ねた使節団は神経を尖らせたし、また江戸滞在のための予算も当初予定したものより大幅に超過したものにならざるを得なかった。恐らく、家光回復の兆しがなかったためであろう、1650年4月7日にようやく老中の引見となり、フリシウスとブロウクホルストの二人だけがまだ幼かった「世継ぎ」、家綱(1641ー1680年)との謁見を許された。その後も家光の臼砲撃披露への列席の願望は強く、他方また江戸滞在の4ヶ月の間にシャムベルゲルの外科術も高い評価を得るようになっていた。そのようなわけで、使節団が江戸を発つ直前になって、臼砲手と外科医に人を何人か付けてしばらく江戸に残しておくようにとの幕府からの要請があった。後に残った「紅毛人」は団長及び会計係であった下位商人Willem Bijlevelt(Bijlveldt)、それに砲手Jeurian Schedel,及び外科医シャムベルゲルとスヘーデルの助手を務めていた伍長Jan Smith(Smid)であった。通詞は今日カスパル派医家系図の中でシャムベルゲルの最初の弟子として知られている猪股傳兵衛であった。さらに一人の検士が皆の監視役に任じられていたが、その名前は不明である。

 江戸滞在中(1650年4月16日ー10月14日)に起きた重要と思われる出来事については、出島へ帰った商館長ブロウクホルストが商館日記にその概要を記している。幸い江戸からの数通の手紙と、さらに詳しいバイレフェルトの収支簿が残っており、これによってシャムベルゲルやスヘーデルの活動の様子や、またこの四人組の「オランダ人」の生活についてもさまざまな情報を得ることができる。詳細な分析は紙面の都合で割愛し、ここではそれらの主な項目だけを挙げるに留めたい:驚くほど多数の使用人を用いていたことや、籠かきへの多額の支払いによってわかるシャムベルゲルの往診ぶり、豊富な食べ物や飲み物、台所や食卓の道具類、シャムベルゲルが購入した薬品、スヘーデルの射撃実演に伴う費用、通詞として「あてにならない」猪股傳兵衛とのいざこざ、井上筑後守の通詞に対する好意と評価等など。巻末には江戸を離れる際の購入品が記され、その中には必要とする馬の数をめぐって猪股との間に新たな対立が生じたことも記録されている。さらには大坂へ向かう道中(1650年10月15日ー10月25日)の宿、昼食、何度かとった休憩、川の渡し等についても知ることができる。大坂からは数日後、船で直接長崎まで渡っている。この二週間に亘る船旅のための道具や食糧などの長い購入品リストには、驚くほど多くの品物が日本名で記されていて注目に値する。

 yはijで表わし、大文字は固有名詞のみにとどめ、記述の違いについては頻度の多いものに統一した。テキストの形は原本とだいたいにおいて一致する。ページ替えによる金額の繰越は省略した。




Algemeen Rijksarchief, 1.04.21 Factorij Japan No. 1168 (b)

[fol. 1r]
Reeckeningh ende specificatie van d'ongelden gedaan bij den coopman Willem Bijlvelt met den vuerwerker ende chirurgijn mitsgaders noch een corporaal naar 't afreijzen vanden gezande, ende 't opperhooft d'Heeren Andries Frisius, ende Anthonio van Brouckhorst, ten begeren van den kaijzar ende de rijcks raden van Japan om eenige mortiers te schieten als andersints, in Jedo verbleven.

Ao 1650
(April 1650)
(Maij 1650)
(Junij 1650)
(Julij 1650)
(August 1650)
(September 1650)
(October 1650)

 脚注




  1. Juriaen Schedel
  2. Caspar Schamberger
  3. Jan Smit(h)
  4. 修繕のためのカンガン布
  5. 乗物、つまり賀籠
  6. 井上正重筑後守
  7. 酒井讃岐守忠勝
  8. 足袋
  9. 源右衛門
  10. Enten waren beliebte Speisevoegel in der Edo-Zeit. Da das Fett der zahmen Ente einen eigentümlichen Geruch hat, zog man Wildenten vor oder vermischte das Fleisch beider. (Okada, S. 79). Der Genuss von Tauben galt als gut für die Augen (Okada, S.45), auch die Feldhühner, d.h. Fasanen, wurden sehr geschätzt. (Okada, S.77)
  11. 数多くの卵を頻繁に購入していることから、これはウズラ の卵と思われる。
  12. 醤油
  13. このビールはおそらく米を醸造したものだろう。これは、購入の頻度からわ かるように、かなりの* である。
  14. 薬罐
  15. 味噌
  16. パンの購入は出島商館長日記 にも何度か記されている。 Bijlevelt が記録している数* の多さから江戸で購入したパ ンは非常に小さかったと思われる。または*-ょっとすると 何か饅頭のような「パンに似た」ものだったのかも知れない。
  17. 蚊帳
  18. 蒸留する
  19. 猪股傳兵衛

  20. 小判
  21. 馬場三郎左衛門利重
  22. 海老屋
  23. 正月
  24. 蜜柑
  25. 松茸、椎茸
  26. 青のり、

 

 

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