3 疫病から伝染病へ
社会基盤を揺るがすおそれのある疫病は古代から人々を悩ませ、ときには歴史の流れを左右するほどの猛威をふるった。古くはペロポネソス戦争時に流行した疫病が、指導者ペリクレスや多くの市民を死に至らせ、やがてアテナイの敗北の一因となった。737年及び995年に京都を襲った天然痘と麻疹により日本の政治は麻痺状態に陥った。1348年に大流行したペスト(黒死病)でヨ−ロッパの人口の3分の1が死亡し、それにより人々の間に医学のみならず、神に対する懐疑が芽生え、ルネサンスと宗教改革の背景要素の一つとなった。19世紀、世界的に大流行したコレラは日本にも及び、多数の犠牲者を出した。 近世以前の日本で「流行病(ハヤリヤマイ)」として特に恐れられたのは「疱瘡」、「麻疹」及び「水疱瘡」だった。人々は、突然姿を現し急激に広がる病気を擬神化し、養生法や呪術によりこれらの疫病神を防げ、退治しようとしていた。医学の近代化の象徴でもある予防接種の導入や公衆衛生の普及により、伝染病を抑え、場合により撲滅することもできたが、新型肺炎(SARS)や鳥インフルエンザが引き起こしたパニックが示すように、昔と同様に社会的不安、患者への差別などを引き起こす伝染病の脅威は今日でも衰えていない。
疱瘡天然痘(疱瘡)は Variola veraというウイルスによって起こる感染力の強い伝染病である。『日本書紀』に天平7年に「幼い子供が多数死んだ」という記述があり、天然痘は天平年間に大陸から侵入したとされている。以降天然痘は19世紀まで大流行を繰り返した。1857年から5年間長崎海軍伝習所の医学教授を務めていたポンペ・ファン・メ−ルデルフォ−ルト(J. L. C. Pompe van Meerdervoort, 1829-1908)は「日本ほど痘瘡のある人が多い国はない。住民の3分の1は痘痕があるといってよい」と書いている。 疱瘡は当初、人間の穢れを怒る神の祟りと思われていたが、後に仏教の影響下で、海外から「疫病神」が襲来すると考えられるようになった。この疫病神は犬と赤色を嫌うとされていたので、患者の衣類などを赤色ずくめにする風習が広まった。郷土玩具には痘瘡の護符に由来するものが多い。江戸期になると、小児が母親から受け継いだ胎毒及び天行が原因であるという中国医学に基づく説が一世を風靡したが、疱瘡神を祀る習慣は民衆の間で幕末まで続いていた。
上記の証文は、長徳3(997)年5月の日付で、丈七尺の山伏黒味筋悪をはじめとする疱瘡神五人の連名により、若狭国小浜の納屋六郎左衛門(組屋六郎左衛門の誤り)に差し出されたように作られた呪符である。組屋六郎左衛門とは、平安の人物ではなく、戦国末期に豊臣秀吉の朝鮮出兵時の兵糧運搬に携わったり、小浜藩の代官を務めたりしたという小浜瀬木町の豪商である。功績と影響力のためか、彼が疱瘡神を家に泊め供応し、魔除けの神力があるという話が広まり、江戸期の人々は疫病神が自分の家を避けて通過してゆくようにとの願いを込めて、六郎左衛門の子孫であることを暗示する呪符を家の入り口に貼った。 医学分館所蔵の文書には、さらに歌五種が付され、最後に「長徳四年戌六月八日疱瘡神御宿越前国南條郡湯尾巌御嫡子也」とある。湯尾(ゆのお)峠は現在の福井県南越前町湯尾と同町今庄の間の峠であり、頂上には飛鳥時代からの伝説に遡る孫嫡子(マゴジャクシ)の神社及び孫嫡子のお守り札を売る茶屋が4軒あった。醍醐天皇が疱瘡を患い同神社に祈願したらたちまちに平癒したので、孫嫡子大明神は疱瘡の神として世に伝わったと言われていた。 この峠を越えた松尾芭蕉は「月に名を包みかねてやいもの神」と詠んだ。この「いも」は月見の供え物と痘瘡を意味している。孫嫡子の呪符は西鶴の『男色大鏡』、近松門左衛門の『傾城反魂香』、十返舎一九の『湯尾峠孫嫡子』などの文学作品にも登場するほど有名であった。 1690年来日したオランダ東インド会社の医師ケンペル(Engelbert Kaempfer, 1651-1715)はこの一世紀の間に4回も流行した疱瘡に関して日本人の話を記録し、「 VII Foso no Cami id est 7 Pock Geister」(七疱瘡の神つまり七疱瘡霊)という記述を残した。ケンペルによれば、この「神、または児童疱瘡の霊」は「たいていが悪性」で、患者には次の病状を示す一種の前兆として現れる。「山伏神」は一般に非常に悪性であり、「盲神」は盲目者のような姿で現れ、さらに悪性である。次に続くのが「坊主」(Boos, Pfaffen)と、「爺」(dsii, alt Man)と「婆」(Baba, alt Weib)で、この三種は不吉な前兆となり、目前に迫った死を示している。これに対して「若衆」(wakas, Juengling)か娘(Musme, junge Tochter)が姿を現すと、まもなく回復する。七福神に似せて作られたと思われるこの疱瘡神についての日本の資料はあまり発表されていない。ケンペルが描写したのは発病の日によって病のなりゆきを占う図のようなものであった。江戸期の版画などに見られる七疫神(魁神、兵神、刑神、早神、石神、役神、寛神)の姿及び特徴はほぼケンペルが書いている通りである。
医師ケンペルのメモ大英図書館が所蔵しているケンペルの「Collectanea Japonica」[1]には、一種の分類も見られる。ケンペルによれば日本人はその外観から天然痘を五種類に区別し、「似たような物の名」をつけている。 「アズキ(Addsuki)は「赤または茶色のソラマメの形」にちなみ、「ハシカ」のように最も軽い種類。
マメ(Mame)は丸くて白い豆の名を持つ。 タコおよびタコノテ(Tako seu tako no te)は一種の銀鮫に由来する。 「ツタ」(Tsta sive Tsuta)は蔦の葉の形を思わせる。「ツタ」の葉は葡萄または「モミジ」の葉に似ている。これらはタコノテよりも悪性で死ぬことも多い。 最も深刻でたいていが死んでしまうのが、紺色で盛り上がることから「ブドウ」(Budo)と呼ばれるものである。 「ツタ」と「ブドウ」は、回復してもその皮膚はまるで仮面のように剥がれ、患者は全く異なった容貌になってしまうほど悪性である。 橋本伯寿の貢献痘瘡の伝染性について啓蒙したのは、甲斐の橋本伯寿(ハシモトハクジュ)だった。文化7(1810)年で発表した『断毒論』で、長崎で西洋医学を学んだ白寿は、伝染説を論述し、隔離の必要性を強調している。その3年後、さらなる普及のための『国字断毒論』が刊行された)。
種痘イギリス人ジェンナ−が開発した牛痘種痘から始める著者が多いが、それに先立つ人痘種痘を抜きにして予防接種の歴史は十分に語れない。昔から人々は一度天然痘にかかると二度はかからないことを経験的に知っており、中近東で軽い天然痘にかからせる方法が考え出されたと思われる。西と東へ伝わったこの人痘種痘は、予防接種という概念を広げ、東西両洋における研究の土台となった。
江戸・明治期における天然痘をめぐる動き
中国の乾隆帝の勅により,呉謙ら医官が乾隆14年(1749)に刊行した『医宗金鑑』には、いわゆる旱苗法を描写した「種痘心法」がある。痘痂を粉末にし、これを銀管中に盛り鼻腔内に吹き入れる方法である。 人痘種痘法は17世紀前半以降、中国から日本に伝わったが、その危険性と不確かな成果のため、普及には至らなかった。
寛政元(1789)年、秋月藩の8代藩主長舒に召し抱えられた久留米藩医緒方元斉の養子春朔は、同年秋月で流行していた疱瘡に悩まされた。彼は『医宗金鑑』の第六十巻(「種痘心法要旨」)に見られる鼻旱苗法を改良し、「これを用いるに百発百中、応ぜざるは一つもなし」という独自の種痘法を開発した。翌年の流行でその方法の有用性を確認した春朔は『種痘必順辨』、『種痘緊轄』、『種痘證治録』を発表した。その後、彼の名は全国に知れわたり、九州各地、京都、江戸などから入門を希望する医師が秋月に集まった。春朔流の鼻旱苗法は種痘という概念の普及に大いに貢献し、後の牛痘種痘法が急速に受容される基盤と原動力となった。 種痘医列名(『種痘必順辨』より)
18世紀初頭、トルコ駐在イギリス公使夫人モンタギュ−(Lady Mary Wortley Montague, 1689−1762)は、軍外科医メイトランドに命じ、コンスタンチノ−ブルで観察した人痘種痘を自分の子どもに実施させた。それが成功したので、夫人は帰国後その普及を積極的にすすめ、とりわけ上流階級に大きな影響を与えた。1721年に、メイトランドはウェ−ルズ王女の依頼を受け、死刑を免除するという条件で死刑囚7名に種痘を行った。死亡例はなかったので、ドイツ、フランスなどの医師たちは症状の軽い天然痘患者の膿疱から抽出した液を健康な人に注射するようになった。しかし、予防効果がない、死亡者が出る、小流行が起こるなど、安全性の問題は決して小さくなかった。
イギリスの地方医師ジェンナ−(Edward Jenner, 1749−1823)は、牛痘(cow pox)にかかった者は天然痘にかからないという農民の話を聞き、一連の事例を追究した上で、1796年、健康な少年に牛痘接種を行った。回復した後に天然痘を接種したが、少年は天然痘にはかからなかった。翌年英国学士院に送った報告に対する反応は冷ややかだった。ジェンナ−は事例を増やし1798年に『牛痘の原因および作用に関する研究』という著書を自費で発表した)。このとき、ラテン語のvacca(牛)に基づきvaccine(痘苗、ワクチン)という用語が誕生した。以降、牛痘法は、短期間でヨ−ロッパ中に広まった。ジェンナ−はイギリス議会より賞金を贈られたが、医学界がこの控えめな田舎医師の歴史的功績を認めるまでにはかなり時間がかかった。
1823年来日した医師シ−ボルト(Philipp Franz von Siebold, 1796-1866)は人痘種痘の実技を紹介したが、彼が試みた接種はうまくいかなかった。1848年来任した医師モ−ニケ(Otto Mohnike,1814−1887)は、1849年に長崎の阿蘭陀通詞会所に伝習所兼種痘所を置き、持参した牛痘苗で、阿蘭陀通詞兼蘭方医吉雄圭斎、長崎在住の佐賀藩医楢林宗建、長崎遊学中の水戸藩医柴田方庵などの協力を得て同年末までに391人に接種し成功した。先見の明を持つ蘭方医・蘭学者はこの画期的な予防接種に飛びついた。モ−ニケによってもたらされた牛痘は子供の腕から腕へ植えつけられ、短期間で長崎から、佐賀、大村、中津、広島、大阪、京都、江戸、佐倉、函館など全国各地に波及した。後の東京帝国大学医学部に発展する伊東玄朴の玉ヶ池種痘所、緒方洪庵が開設した除痘館などの新しい施設は、国内の医療制度に大きな影響を与えた。また、深川で小児科を開業した越後出身の医師桑田立斎(1811-1868)は、安政4(1857)年、天然痘の流行した蝦夷地に渉り、5150人に日本初の強制種痘を行った。
痲疹・麻疹麻疹(ましん、はしか)は、Paramyxovirus morbilliというウイルスによる感染症の一種である。史上初の記述はペルシャの名医アル・ラジ(Al Rhazi / Rhazes, 860−925/35)によるものである。バグダッドの病院長を務めたアル・ラジは『痘瘡と痲疹』(al-Judari wa al-Hasbah)というヨ−ロッパでも広く普及した本において、その病状を詳細に描写し、初めて麻疹と痘瘡とを区別している。 日本での流行に関する記録は長徳4(998)年から始まる。史料に見られる赤斑瘡・赤瘡(アカモガサ)は痘瘡を指している場合があり、麻疹に該当する場合もある。江戸時代において麻疹は短い間隔で流行しており、一生に一度はかかる可能性がきわめて高かった。
文久2年には江戸の死者が1万4千人を超えた。生き延びた患者は二度とかからないが、大人が麻疹にかかると症状が重い。 麻疹の疫病神はいなかったが、呪符を書いて家に貼るという麻疹除けが行われた。同様にタラヨウの葉、ひいらぎの葉や麦の穂が門口につるされた。また、百合の根、水飴、黒豆、小豆、アワビ、甘藷、人参、干し大根、焼き塩などを患者に薦める食事療法があり、酒、卵、蕎麦、蒲焼きなどは避けるべきとされた。 麻疹ウイルスが特定されたのは、1954年だった。ワクチンは1963年から市場に出ている。
コレラコレラは、 Vibrio choleraeという菌を病原体とする経口感染症である。その名称は古代ギリシャの体液病理学の黄色胆汁に由来する。古い記録は紀元前300年頃に遡るが、世界的大流行が起こったのは19世紀に入ってからである。1817年以降、計6回にわたるアジア型の大流行があり多数の死者を出した。ドイツの細菌学者ロベルト・コッホ(Robert Koch, 1843−1910)が1884年にコレラ菌を発見し、その後防疫体制も強化されたので、20世紀に入ってから、コレラの発生の世界的拡大は阻止できた。 文政5(1822)年に発生した日本初のコレラは九州から東海道に及んだものの、江戸に達することはなかった。3回目の世界的流行は再び日本に波及し、安政5(1858)年から3年にわたり全国各地を襲った。明治に入っても2〜3年間隔でコレラの流行が続き、1879年、1886年には死者が10万人を超えた。
緒方洪庵(1810−1863)は、備中足守藩士の子として生まれ、医学を志した。大坂で中天遊に、江戸で坪井信道、宇田川玄真に学び、また長崎に遊学した。その後大坂で蘭学塾「適塾」を開いて後進の指導に当たった。この適塾から幕末、明治にかけて活躍した大村益次郎、福沢諭吉、橋本左内、大鳥圭介、長与専斎等が輩出した。一方洪庵は種痘法の導入、普及に尽力し、大坂に除痘館を設け、分苗を行った。 また、コレラ流行の安政5年にはいち早くそれに関する医書を刊行するなどして啓蒙を図った。文久2(1862)年、幕府に召し出され、奥医師兼西洋医学所頭取となり、法眼に叙せられたが在職僅か10ヶ月で死去した。 霍乱は激しい下痢や嘔吐を伴う病気として理解されており、今日の急性腸炎・赤痢などを含む古い名称であるが、19世紀にはコレラの別名として用いられることが多かった。
[1] British Library, Sloane Collection 3062 (Collectanea Japonica) [2] 桑田立斎は19世紀日本の数少ない小児科書『愛 育 茶 譚』の著者でもある。 |
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