東西の古医書に見られる病と治療 − 附属図書館の貴重書コレクションより
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8 言葉の壁
異文化交流において、薬草などの医薬品や、疵、骨折、脱臼といった目に見えるものに対する外科的処置の「越境」はよく見られるが、自然観、身体観、宗教などと密接に絡み合う病理学的・生理学的な概念の受容は困難を極めた。また、後者のためには交渉の継続性と密度も極めて重要である。中国との長い交流により、仏教、道教、儒学に慣れ親しんでいた日本人は、明治3年の新政府の方針転換まで、漢方医学を手放すことはなかった。出島商館医の教授を受けたり、蘭方医書の解読に取り組んだりしていた、江戸期のいわゆる蘭方医でさえ、従来の脈診、漢方薬、鍼灸を捨てずに患者の治療にあたり、蘭文の用語を漢語を通じて把握しようとしていた。西洋の内科医書の本格的な和訳の誕生が遅かったのは、偶然ではない。
「阿蘭陀口和書」
この写本は、17世紀後半の初期紅毛流外科の語彙集の典型である。整理されないままオランダ語として列挙された単語は、ラテン語、ポルトガル語である。内題が示すように、「翻訳」の意味である「口和」は「クチヤラワゲ」と読むべきである。このような単語集を作成したのは、長崎や江戸で出島商館医の通訳にあたった阿蘭陀通詞(通事)であった。西玄甫、楢林鎮山、本木良意など、西洋外科術に関心を寄せた通詞たちは、医書、道具、薬品を入手し、やがて蘭方の医塾を開き、弟子を養成するようになった。
生薬名
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和訳
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セイメンアネイテ
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イノンドノ種
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セイメンアヽヒヨム
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山午房ノ種
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セイメンアゼトウザ
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スシクサノ種
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セイメンカナベス
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アサー
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セイメンチイトロン
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スイクハ
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セイメンコルヤンドル
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コエトロ
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セイメンアンデイヒ
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ヲランタナカチサ
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セイメンエルウチエ
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カラシ
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セイメンニゲレセ
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コロハ
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セイメンラクトウカ
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ヲランダハノマルキチサ
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温性同断
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コマニン
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ノロウノム
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ウリ
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ヨウチミ
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カウシユクサ
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セイメンヘニイクレ
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コウイキヤウ
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セイメンヒヨニイ
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シャクヤクノ種
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セイメンハツアハルス
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ケシ
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セイメンヒイトロセイリニ
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ヲランセリ
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セイメンフランタアコ
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車前草
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セイメンホルトラアカ
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スベリヒヤウ
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セイメンアラハネ
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タイコン草
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「阿蘭陀口和書」の生薬。書写地不明、書写者不明、書写年不明。
〔九州大学附属図書館蔵〕
セイメンアネイテ(Semen Anethi)。「阿蘭陀口和書」書写地不明、書写者不明、書写年不明。
〔九州大学附属図書館蔵〕
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「外科古伝」の単語集
19世紀の蘭学塾「蘭秀堂」で写されたこの写本の第1・2巻は、儒医向井元升が1656年末にまとめた腫瘍の治療法について述べているが、第3巻は、阿蘭陀通詞兼蘭方医だった吉雄耕牛(1724 - 1800)に遡る単語集である。
25歳の若さで大通詞となった秀才耕牛は、吉雄流紅毛外科の創始者として家塾「成秀館」を設立し、多数の門人を育てながら、当時一流の医師、蘭学者に大きな影響を与えた。
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「外科古伝」書写地不明、長嶋元長写、天保13(1842)年写、4巻4冊。
〔九州大学附属図書館蔵〕
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訳語選定の困難
「外科古伝」の見出し語は、いろは順で整理されているが、かなり増えたラテン語とオランダ語とともに、galinha (雌鳥)、cravo(丁子)などのポルトガル語が確認できる。カミツレは野菊である、などといった薬草の「翻訳」には、大いに問題がある。興味深いことに、Anatomia(解剖、解剖学)は、中国医書に見られる経絡図(図法師、経絡銅人形)として説明されている。
医事・博物の宝函
ケーニヒスベルク大学の教授ヴォイトは、この『医事博物宝函』によって、医者だけでなく、大学教育を受けていない医療関係者(薬剤師、床屋外科医、蒸溜師、薬草家、実験助手など)に、最新の情報を簡潔に提供しようとしていた。長い書名が示すように、見出し語は病名、医薬品、各種生薬などの分野に及んでいる。1709年から1767年まで計16版に及ぶベストセラーだった。1741年アムステルダムで発表されたオランダ語版は、日本にも伝わった。
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Johann Jacob Woyts Gazophylacium
medico-physicum, oder, Schatz-Kammer medicinisch- und natürlicher Dinge,
in welcher alle medicinische Kunstwörter, inn- und äusserliche
Kranckheiten, nebst dererselben Genes-Mitteln, alle Mineralien, Metalle,
Ertze, Erden, zur Medicin gehörige fremde und einheimische Thiere,
Kräuter, Blumen, Saamen, Säffte, Oele, Hartze [...] alle rare
Specereyen und Materialien, in einer richtigen lateinischen Alphabet-Ordnung
auf das deutlichste erkläret, vorgestellet, und mit einem nöthigen
Register versehen sind: nebst Johann Ernst Hebenstreits Versuche eines
griechisch lateinisch-teutschen medicinischen Wörter-Buchs. 13 Aufl.
Leipzig, Friedrich Lanckischens Erben, 1751.
〔九州大学附属図書館蔵〕
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「シカットカームル和解」
「シカットカームル」はヴォイトの『医事博物宝函』の蘭語書名(Gazophylacium medico-physicum of Schat-kamer der genees- en natuur-kundige zaaken)に見られる「Schat-kamerである。その実用性とわかりやすさで、ヴォイトの「宝函」は吉雄耕牛、杉田玄白、宇田川玄真らの蘭学者に認識されていた。
一種の抜粋である本写本の背景はまだ解明されていない。
「シカットカームル和解」書写地不明、書写者不明、書写年不明、1冊。
〔九州大学附属図書館蔵〕
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『蘭療薬解』
吉雄永貴閲・広川獬
[カイ]訳の『蘭療薬解』は、舶来医薬品の蘭語名、その読み方及び意味を紹介している和蘭事典である。巻末には8枚の銅版画がある。著者が発表した数々の本のなかで、『長崎聞見録』(1797年序)も有名。
国産の蘭方薬「ホルトス」
長崎の観生堂が製造した溜飲、癪気の薬を賛美する宣伝資料である。舶来の医薬品に対する民衆の評価を利用し、蘭方と称してカタカナ名をつけた製品であった。胃薬のウルユスもある。
『蘭方ホルトス弘方心得書』出版地不明、出版者不明、出版年不明、
1冊。
〔九州大学附属図書館蔵〕
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『漢洋病名對照録』
新政府が明治3年にドイツ医学の導入を決定してから、大学や病院など全国の医療関係者にとって、膨大な量の西洋の専門用語を短期間で理解し、習得することが緊急課題の一つとなった。この過程では、従来の漢語の利用は避けられず、用語の形を残しながら、その内容を再定義する方法がうまくいった場合もあるが、のちに専門用語を改める例も少なくなかった。
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落合泰藏纂著『漢洋病名對照録』東京、英蘭堂、明治16(1883)年刊、1冊。表紙見返しに「自適堂落合蔵版」とあり。
〔九州大学附属図書館蔵〕
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「和蘭局方」
宇田川玄随、大槻玄沢について蘭学を学んだ榛斎は、『遠西医範』、『医範提網』などの翻訳により名声を得た。特に後者は『解体新書』や『重訂解体新書』と並び日本の解剖学の基礎を築いたものとして有名である。また、医薬品製楝術を明らかにした『和蘭薬鏡』、『遠西医方名物考』及び「和蘭局方」により、榛斎は西洋薬物の研究にも大いに貢献した。
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宇田川榛斎訳、木邨秀茂輯「和蘭局方」書写地不明、文化7(1810)年写、2巻2冊。
〔九州大学附属図書館蔵〕
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豊富な医療経験をまとめた『医学必携』
ドイツの医学者フーフェランド(Christoph Wilhelm Hufeland, 1762-1836)は、当時、最もよく読まれた医師・医学者だった。彼の半世紀にわたる医療経験をまとめた『医学必携』のオランダ語版(Enchiridion medicum: Handleiding tot de geneeskundige praktijk. 1841)は、幕末の蘭方医にも大きな影響を与えた。
C. W. Hufeland: Enchiridion medicum, oder Anleitung zur medizinischen Praxis, Vermächtniss einer fünfzigjährigen Erfahrung. Berlin, Jonas, 1836.
〔九州大学附属図書館蔵〕
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画期的な訳本:『扶氏経験遺訓』
大坂で蘭学塾「適塾」を開いた緒方洪庵(1810-1863)は、幕末、明治にかけて、大村益次郎、福沢諭吉、橋本左内、大鳥圭介、長与専斎など数々の優秀な弟子を輩出した。彼は、最新の医療の普及のため一連の蘭書を翻訳する一方、自らも多くの著書を残している。「扶氏経験遺訓」(30巻)の翻訳・出版は終生の大事業だった。この本はそれまでの訳書に比べ、より詳細に病因、症候、治療法について叙述しており、日本の内科学を大きく発展させた。
特にヒューマニズムに根ざした医師の倫理を取り上げている巻末の「医戒の大要」は12カ条の訳文として整理され「扶氏医戒の略」として、医師たちに行動の指針を与えている。
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扶歇蘭土著、緒方洪庵訳『扶氏経験遺訓』大坂、秋田屋太右衛門、安政4(1857)年刊、4冊。 表紙見返し、版心に「適適齋塾藏」とあり。序に「安政四年丁巳七月美作虔儒識」とあり。
〔九州大学附属図書館蔵〕
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緒方章訳「扶氏医戒之略」
一、人の為に生活して己の為に生活せざるを医業の本体とす。安逸を思わず名利を顧みず唯おのれをすてて人を救わんことを希ふべし。人の生命を保全し人の疾病を複冶し人の患苦を寛解するの外他事あるものにあらず。
一、病者に対しては唯病者を視るべし。貴賎貧富を顧みることなかれ。
一、握の黄金を以って貧士双眼の感涙に比するに何ものぞ、深く之をおもうべし。
一、其術を行うに当ては病者を以って正鵠とすべし。決して弓矢となすなかれ、固執に僻せず試験を好まず、謹慎して眇看細密ならんことをおもうべし。
一、学術を研精するの外、言行に意を用いて病者に信任せられんことを求むべし。然れども時様の服飾を用い詭誕の奇説を唱へて、聞達を求むるは大に恥じるところなり。
一、毎日夜間において更に昼間の病按を再考し、詳に筆記するを課程とすべし。積て一書をなせば、自己の為にも病者のためにも広大の脾益あり。
一、
病者を訪ふは、疎漏の数診に足を労せんよりは、寧ろ一診に心を労して細密ならんことを要す。然れども自尊大にして屡々診察するを欲せざるは甚悪むべきなり。
一、不治の病者も仍其患苦を寛解し、其生命を保全せんことを求むるは医の職務なり。棄てて省みざるは人道に反す。たとひ救うこと能はざるも、之を慰するは仁術なり。片時も其命を延んことをおもうべし。決して其の死を告べからず。言語容姿みな意を用いて之を悟らしむることなかれ。
一、病者の費用少なからんことをおもふべし。命を与ふとも命を繋ぐの資を奪はば亦何の益かあらん。貧民に於いて茲に甚酌なくんばあらず。
一、世間に対しては衆人の好意を得んことを要すべし。学術卓絶すとも言行厳格なりとも、斉民の信を得ざれば之を施すところなし。普く俗情に通ぜざるべからず。殊に医は人の身命を委托し赤裸を露呈し最蜜の禁秘をもひも啓き、最辱の懺悔をも告ざることは能はざる所なり。常に篤実温厚を旨として多言ならず、沈黙ならんことを主とすべし。博徒、酒客、好色、貪利の名なからんことは素より論をまたず。
一、同業の人に対しては之を賞すべし。たとひしかること能はざるも勉めて忍ばんことを要すべし。決して他医を議するなかれ。人の短をいふは聖賢の明戒なり。彼が過を挙るは小人の凶徳なり。人は一朝の過を議せられておのれの生涯の徳を損す。其の得失如何ぞや。各医自家の流有て、又自得の法あり。慢に之を論ずべからず。老医は敬重すべし。少輩は愛賞すぺし。人もし前医の得失を問ふことあらば勉めて之を得に帰すべし。其冶法の当否は現症を認めざるは辞すべし。
一、治療の商議は会同少なからんことを要す。多きも三人に過ぐべからず。殊に其人を択ぶべし。只管病者の安全を意として、他事を顧ず、決して争議に及ぶことなかれ。
一、病者勝曾て依託せる医を舎て、密かに他医に商ることありとも漫に随うべからず。先其医に告て其説を聞にあらざれば従事することなかれ。
然りといへども、実に其誤冶なることを知て、之を外視するは亦医の任にあらず。殊に危険の病に在りては遅疑することあるなかれ。
安政丁巳春正月
公裁謹誌 緒方章印
杉田信成卿訳『医戒』
杉田玄白の孫信成卿(1817-1859)の和訳は広く普及しており、医師達の関心の高さを示している。
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フーヘランド著、杉田信成卿訳『医戒』江戸、須原屋伊八、万延
2(1861)年再刻1冊。
〔九州大学附属図書館蔵〕
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