東西の古医書に見られる病と治療 − 附属図書館の貴重書コレクションより



 

 西洋の体液病理学

古代ギリシャ・ロ−マ時代の医学には様々な流派があったが、西洋で最も大きな影響を与えたのは、ヒポクラテス(紀元前460年頃〜377年頃)とガレノス(130年頃〜200年頃)だった。

『ヒポクラテス全集』(ギリシャ語の原文とそのラテン語訳)に見られるヒポクラテスの肖像画。江戸期の日本の蘭方医の間にも、このような想像図が広く普及していた。
Magni Hippocratis Medicorum Omnivm Facile Principis Opera. Tom. I, II. Geneva, Samuelis Chouet, MDCLVII.
〔九州大学附属図書館医学分館蔵〕

後世に「医学の父」、「医聖」と呼ばれたヒポクラテスは、エ−ゲ海南西部のコス島で医学の指導を行いながら、超自然的な病因や魔術による療法を排除し、医学を「自然科学」へと導いた。いわゆるヒポクラテス集典(Corpus Hippocraticum)という資料群には、コス派と無関係の文献も含まれているが、ヒポクラテスに遡るとされる文書を見ると、彼は病気の経過についてはかなり詳細な記述を残しているが、病名はほとんど記していないことがわかる。ヒポクラテスの関心を引いたのは病気ではなく、病気にかかった患者の方だった。

この発想は彼の視線を医師と医療活動にも向かわせた。ヒポクラテスは、患者に危害や不正を加えないで自分の医術(技芸)の最善を尽くし、差別をせず、生命を尊重するなど、今日でも大いに参考になる医師の倫理を初めて成文化したとされている。「ヒポクラテスの誓い」は、1508年、ドイツ・ヴィッテンベルグ大学で初めて医学生の宣誓に用いられ、とりわけ19世紀以降、西洋の大学医学部の卒業式で広く採用されるようになった。

 

ヒポクラテスの誓い
 「医神アポロン、アスクレピオス、ヒギエイア、パナケイアをはじめ,すべての男神、女神にかけて、またこれらの神々を証人として、わたしの能力と判断力の限りをつくしてこの誓約を履行することを誓う。
私は、私の能力と判断力の限りをつくしてこの約束を守る。この医術(技芸)を私に授けた人を両親の如く思い、運命をともにし、もし師が金銭を必要とするときには、私の金銭を分けて助ける。師の子弟を私自身の兄弟と考え、彼らが学びたいならば、報酬なしに医術を教える。私の息子、わが師の息子、医の掟により約束と誓いをたてた弟子たちに、医師の戒律と講義その他すべての知識を授ける。それ以外の誰にも与えない。
 私は、能力と判断力の限りをつくして、患者に益する養生法を施し、不正な害を与える方法を決してとらない。頼まれても、致死薬を与えない。そのような助言もしない。同様に、婦人に堕胎器具を与えない。私は純潔で敬虔な生涯を貫き、私の医術を行う。結石患者に載石術をせず、これを業とする人に委せる。いかなる患家に入るときも、患者のためであり、不正や堕落の行いを厳につつしむ。男と女、自由民と奴隷であるとを問わず、その肉体をおかすことはしない。治療に関すると否とにかかわらず、他人の私生活について秘密を守る。
 もし、この誓いを固く守るならば、私は生涯、医術を楽しみつつ生きて、すべての人から名声を得られるよう許したまえ。もし、この誓いを破るならば、これと逆の運命をたまわりたい。」

附属図書館医学分館の前に立つ「ヒポクラテスの木」

 ギリシャのコス島にスズカケノキの巨木があり、その木の下でヒポクラテスが医学を教えたと伝えられている。1969年、長年日本医史学会の会長も務めた新潟の整形外科医・蒲原宏博士がコス島に渡りその木の実を採取して、帰国後発芽させ八株を育てた。九州大学整形外科の教授・天児民和(1905-1995)は1973年にそのうちの一株を貰い受け、学問と医療の発展を祈念し医学分館の前に植樹した。

 

病気にかかるとき

人間と自然の調和を重視していたヒポクラテスなどの古代の医学者は、万物が火、風、水、地の元素からなるというエンペドクレス(紀元前490年頃〜430年頃)の四大元素説を引き継ぎ、四体液説を唱えた。この説によると、人間の体内には栄養摂取による物質代謝の産物である血液、粘液、黄胆汁、黒胆汁という四原液がある。正常な混合状態ならば、人間は健康であるが、異常混合になると病気が発生する。変調の原因となるのは、環境や生活様式、体質である。

治療の目的は正常混合の復活である。黒胆汁の過剰による病気の性質は「冷」であるので、過剰な分の排出及び熱性の薬品の服用により身体内の均衡を取り戻さなければならない。「反対はその反対で治療される」(contraria contrariis curantur)というヒポクラテスによるとされている原則は医者の目を病気、薬草、風土及び人間の性質(temperament)に向かわせた。体液病理学(humoral pathology)は、後にガレノスによりさらに体系化され、近世まで西洋医学を支配するようになった。

 

病気は3段階

病気には3つの段階が見られる。未熟期(apepsis)では、体液は変化し始める。成熟期に入ると体液の「沸騰」(pepsis, coctio)が起こる。その後始まる分離期には、発症(crisis)が起こり、病原体の排除により病気は治癒する。しかし、病原体が下半身に沈着してしまう場合は慢性病になる。

 上記の体液に加え、東洋医学の「気」に類似する「プネウマ」(pneuma)も古代の病理学に大きな影響を与えた。

 

ガレノスによる仕上げ

ギリシャ医学の最盛期末、2世紀に医師ガレノスが現れる。彼はギリシャのペルガモンの出身だが、学業を終えてスミルナ、コリント、エジプトのアレクサンドリアを経てロ−マへ行き、そこで医師、教師、実験者として名声を得た。ガレノスは少なくとも100篇の論文を書いている。

彼はヒポクラテスの学説を受け継ぎ、他の諸説とともに、総合的な理論体系を組み立てようと試みた。彼の病理学も基本的には体液論に基づくものであった。それはやがて中世の西洋医学の基盤になったばかりでなく、ルネサンス以後の近代化にも関わらず、19世紀に至るまで医学思想のあらゆる分野に影響を及ぼすことになった。

四原液体、四元素等、体内の小宇宙(microcosmos)と体外の大宇宙(macrocosmos)を関連づける対応表。

 

 

日本に伝わった西洋の薬性

「阿蘭陀薬草並脂和書」書写地不明、書写者不明、書写年不明。
〔九州大学附属図書館医学分館蔵〕

 

17世紀後半、紅毛人(オランダ人)の外科術を取り入れながら、海外の医薬品に関する研究も盛んになった。出島の商館医は生薬を紹介する際、必ずそれらの薬性(温、寒)なども述べていた。西洋と同様に身体内の均衡を追求する漢方医学も、薬品の「性」を重視していたので、ギリシアの体液病理学に基づく四性(熱、寒、乾、湿)は、五行説に基づく本草学の「五性」(熱・温・平・涼・寒)の枠の中で解釈されたようだ。

ラテン語の薬名「セイメンアネイテ」つまり「Semen Anethi」の和訳は、南蛮人との交流によりすでに日本語の語彙に定着したポルトガル語「 eneldo」のカタカナ表記「イノンド」となっている。

 

 

体液病理学の遺産

西洋医学の近代化で体液病理学は次第に医書から姿を消したが、病名や西洋人のしぐさや日常言語には、さまざまな名残が今日も受け継がれている。

 

● 人間の中心としての心臓

西洋の伝統医学によれば、心臓はいわゆる先天性の温熱(calidum innatum, calor innatus)を持っている。この温熱は四原液体を動かし、その活動を維持する。消費された温熱の大半は飲食で補給できるが、人間が歳を取るにつれて、温熱及び体内の「根元の湿気」(humidum radicale, humidum primigenium)の残分が減り、死ぬ時点でついになくなってしまう。紀元前300年頃の医師・解剖学者ヘロフィロス(Herophilos)はすでに、脳を思考と知性の座と捉えたが、一般には、熱を恵む太陽が大宇宙の中心にあるように、心臓が身体という小宇宙の中心器官であるとされていた。それに、人間の魂は心臓に宿るという初期キリスト教の観念が加わり、自分を示す際、指や手を胸にあてる習慣が生まれた。

 

● ユ−モア

ユ−モアのある人は原液体(humor)をたっぷり持っている。その人はユ−モラスである。

 

● コレラ

 コレラ(colera / cholera)という病名は、四体液説の黄色胆汁に由来する。そもそも黄色胆汁は元素の「火」に対応し、熱く乾いた性質を持つ暑い国の病気と考えられていた。

 

● 気が短い人は「黄色胆汁性」

気が短く怒りやすい人は、今日でも choleric (英語 ) cholerisch(ドイツ語)、colérique(フランス語)などと呼ばれている。のんきな人は粘液(phlegma)から発生した形容詞phlegmatic, phlegmatisch, flegmatiqueで表される。

ルネサンスの画家デュ−ラ−(Albrecht Dürer, 1471-1528)が1514年に発表した銅版画には、人間の憂鬱(Melencholia I)が描かれている(図4)。この状態は、黒胆汁の過剰によるとされていた。題目の「I」はオカルトの追究で有名な哲学者・医者アグリッパ(Cornelius Agrippa, 1486-1535)が定義した3種の憂鬱の第1種(Melencholia Imaginativa)を示しているようだ。アグリッパによれば、この種の憂鬱に陥ると、人間の理性は想像に支配されてしまう。美術史における画期的なこのデュ−ラ−の絵に関する研究、解釈は今日まで続いている。

「メランコリアI」
アルブレヒト・デュ−ラ−作



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