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16・17世紀のヨーロッパ


 ヨーロッパのルネサンスは解剖学などの医学分野に飛躍的な進歩をもたらしたが、寄生虫の研究は顕微鏡が発明されるまではあまり進んでいなかった。

 1523年、イギリスのフィッツヘルベルト(John Fitzherbert)伯爵が初めて肝蛭(Fasciola hepatica)に言及し(Book of Husbandry)、高く評価された。その後まもなくガブキヌス(Gabucinus)が初の寄生虫専門書を出版している(De lumbricis alvum occupantibus ac de ratione curandi eos qui ab illis infestantur. Venecia 1547)。ジャン・デ・クラモルガン(Jaen de Clamorgan, 1570年)は巨大な腎虫(Dioctophyma renale)について述べ、イヌやヒト、また他の哺乳類の腎臓内に発生すると記している。

アンブロワーズ・パレ
 フランス人アンブロワーズ・パレ(Ambroise Paré、1510〜1590年)は外科学を革新した名医であったが、一方で体内寄生虫の自然発生説を信奉し、ヒポクラテスの3分類に固執した。パレはメジナ虫は「腫瘍か分泌物であり、血液が暖まることで発生し、その勢いで静脈を通り、排泄される」と考えていた。(『全集』より)


Pare: Opera omnia, 1582. WO P 227

近世外科学の源となったパレの『大外科学全集』ラテン語訳、パリ、1582年。
Ambroise Paré: Opera. Jacob Du-Puys, Paris 1582. (210 x 350mm、九州大学附属図書館医学部分館所蔵)

 パレはヒゼンダニの観察も行った:

「ダニは小動物で、常に皮膚の下に潜みながら這って動き回り、次第に皮膚をかじるようになる。それは刺激になり不快なかゆみを生じるので、針で引き出さなければならない。」

 顕微鏡の発明

 17世紀には学問としての寄生虫学が誕生する。ここでは顕微鏡の発明が大いに貢献することになり、研究者は新たな寄生虫を発見し、既知の寄生虫についてもその形態学上の解明がさらに進んだ。
 ガラス製レンズは既に中世から知られていたが、16世紀には鏡胴が付けられた。1590年にオランダの眼鏡商ヤンセン父子が、史上初の顕微鏡を開発したとされている。1622年にはペレーゼ(Peirese)がこれでノミを観察している。技術改良により顕微鏡の全盛期が始まるのはようやく17世紀後半になってからであるが、これは寄生虫学にも大いに寄与することになる。

ロバート・フク
 1660年代にイギリス人学者ロバート・フック(Robert Hooke、1635−1703年)が対物レンズ、接眼レンズ、照明装置などを備えた最初の複式顕微鏡を開発した。1665年には『ミクログラフィア』(Micrographiaを刊行する。ここではcella(細胞)という言葉が生物学的な意味で初めて用いられた。

Hooke: Microscope

フックの顕微鏡とその照明装置(『ミクログラフィア』、図1)


 ここにはヒトノミPulex irritansとコロモジラミ(Pediculus humanus corporis)を拡大した画期的な図も出ている。

Hooke: Microscope

ノミ(『ミクログラフィア』、図34


アントニ・ヴァン・レーウェンフク
1673年頃からオランダの亜麻布商人アントニ・ヴァン・レーウェンフク(アントニ・ヴァン・レーウェンフク(Antonij van Leeuwenhoek、1632−1723年)が1枚のレンズを組み込んだ単式顕微鏡を製造している。金属板の裏面の針先に虫などをつけ、光にかざして見るというものである。この顕微鏡の倍率は266倍にも達し、当時の複式顕微鏡よりも性能はすぐれていた。レーウェンフクは赤血球、精子、細菌などを発見し、ロンドンの王立協会の機関誌に画期的な報告を載せた。彼はまたアイメリア(Eimeria stiedae)のような寄生原虫やウサギのコクシジウム、ランブル鞭毛虫(Giardia lamblia)も発見している。1693年にレーウェンフクはノミの成長を記録している。その図からはノミについている微細なダニも見分けられる。これは「重寄生」(寄生虫に別の寄生虫が付く)に関する最古の観察例となっている。

Leeuwenhoek microscope, Wada Museum

レーウェンフク式顕微鏡のレプリカ(京都、和田医学史料館蔵)

 ガラス棒の先端をローソクの炎で溶かし、表面張力によってできた小さなガラス玉を摩いて球レンズを作り、これを粗仕上げされた真鍮または銀製の金属板のの小さな穴に固定した。調べようとする物体はレンズの前方の針先に置き、ネジを使って焦点のところに移勤させ、距離の調節ができるようになっている。

マルチェロ・マルピギ
 顕微鏡による解剖学の祖マルチェロ・マルピーギ(Marcello Malpighi、1628〜1694年)は寄生虫も観察している。その著書にはヒトに発生したニキビダニDemodex folliculorum(1671年)、サナダムシの頭節(1681年)や幼虫についての記録も見られる。彼はまた肝臓の嚢虫病についてもよく研究している(1689)。

Marcello Malphighi


フランチェスコ・レディ
マルピーギのイタリア人同胞フランチェスコ・レディ(Francesco Redi, 1626-1697)は当時最高の寄生虫学者とされている。その代表作『昆虫の発生について』(Esperienze intorno all generazione degli Insetti, Firenze 1668)と『生きている動物の体内に見られる動物について』(Osservationi intorno agli animali viventi che si trovano negli animali viventi, Firenze 1684)では100種類以上の寄生虫について述べられており、条虫類が14、吸虫類が4、線虫類が10、鈎頭虫類が3、昆虫とダニが42種などとなっている。  彼はまた、回虫の卵も観察したが、その結果、自然発生信仰も揺らぐことになる。最後に立てた説では、生命はすべて、成長した動物が産する卵から生じる(Omne vivum ex ovo)としている。

Francesco Redi Francesco Redi

レディの著作の扉絵。知恵の女神が顕微鏡で微生物を研究している。
Francesco Redi: Opusculorum pars prior sive experimenta circa generationem insectorum. Amsterdam 1686.


ジョヴァニ・ボノモ
 レディの門下生ボノモ(Giovani Cosimo Bonomo、1666〜96年)とセストニ(Giacinto Cestoni、1637〜1718年)は、1687年に疥癬患者からのヒゼンダニの発見に成功する。しかしそれ以降、寄生虫は検出できず、1835年になって再び発見され、ようやく確証が得られることになる。

Bonomo

ボノモの著作に見られるヒゼンダニ
Epistola che contiene osservazioni intorno a'pellicelli del corpo umano, Firence 1687


アタナジウス・キルへル
   寄生虫の自然発生説は17世紀になっても広く信じられていた。体内寄生虫の場合、病原菌が血液中に入り込んで身体中に広がり、そこで有機物質が寄生虫に変化すると考えられていた。


キルへル『地下の世界』1665年
Athanasius Kircher: Mundus Subterraneus. 1665
Scabies

 北京で高級官吏として活躍していたドイツ人イェズス会士キルヘル(Athanasius Kircher、1602〜80年)が著した『中国』はヨーロッパの中国学の土台となったが、キルへルがその他の分野についても幾つかの名書を発表した。『地下の世界』のなけで、自然発生の虫の(想像)図も含まれている。


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